「1990年代中頃、小児科で勤務していたのですが、医師として最も最も耐え難い時期でした。さほど重い病気でもないのに栄養失調で死んでいく子どもたちに何もできなかったんです」
そう語るのはジン韓医院の院長で脱北者のキム・ジウンさん。
彼女は、咸鏡北道(ハムギョンブクト)清津(チョンジン)市の清津医学大学東医学部で7年間、韓医学(韓国独自の発展を遂げた漢方医学、北朝鮮では「高麗医学」「東医」などと呼ぶ)を学び、その後の9年間を内科、小児科、臨床医学研究所で勤務した。
キムさんが言う1990年代中頃とは「苦難の行軍」と言われる大飢饉の時期だ。この時期、食料難による餓死や栄養失調で多くの命が失われた。とりわけ、若年層の死亡率は高かった。
「その頃の私は何も出来ない無力感から気力を失っていました。そんな私を見つめる子どもたちの目に耐えられず・・・結局小児科を辞めたのです」
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面そしていつしか彼女の目はすぐ隣の中国へ向く。
食べるのに必死で治療に専念できず「脱北」
「中国に行けば食べることで悩まなくて済むのだろうか、外の世界で人々はどのように生きているんだろうか、一度ぶつかってみたかったんですよ」
彼女の目が中国へ向いた裏には「医師」という職業が深く関わっている。患者の治療や医学研究に集中するのは、人間の基本的な行動である「食べる問題」をまず解決することが大きなネックになっているからだ。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面「医師をやめても『なんとかしなければ!』と思い突破口を探していた頃に中国を行き来する人々を見かけました。それから中国への好奇心がより強くなったんです」
そして彼女は脱北して中国に向かった。
まずは、不法滞在者として働いた。できる仕事は雑用ぐらいだったが、それでも中国での暮らしは悪くなかった。少なくとも「餓死」の不安からは逃れたからだ。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面しかし、不法滞在者としての生活が徐々に窮屈に感じるようになった。
北朝鮮にいた頃は、少なくてもご飯さえ食べられればホッとできて満足した。ところが中国でお腹いっぱい食べられるようになると、今度は「食べることがすべてではない」と感じはじめた。
一度は挫折した医師として自分に戻りたくなった。でも、中国で一度味わった自由を捨てて北朝鮮に帰ることだけは嫌だった。その頃の彼女は「韓国に行く」ことなど想像もしていなったという。
「北朝鮮で教育を受けた私にとって韓国は遠い国だった。でも、中国でハウスキーパーやお弁当の配達をしながら出会った韓国の人々は私の持っていたイメージとはまったく違ったのです」
それからキムさんは韓国のことをもっと知りたくなった。中国で韓国に関する小説、新聞、雑誌などを手当たり次第に読んだ。そして悩みに悩んだ末、ついに韓国へ行くことを決心する。
「みんな嘘つきだ」韓国での「差別」に悩む日々
紆余曲折を経て韓国にたどり着いた。しかし、生活は思っていたほど楽ではなかった。
「医者に戻ることなんて考えもしなかった。できることならどんな仕事でもやってやるという気持ちはあったが、それすらも難しかったのです」
周囲は「お医者さんだったあなたにこんな仕事をさせるなんてとんでもない」と仕事の紹介をためらった。彼らの言うことが理解できないわけではない。仕方なしに彼女自らミニコミ紙を読んで仕事探しをはじめたが、ここでもつまづく。
「電話をかけると私の訛り(北朝鮮の咸鏡北道訛り)を聞いて『中国から来た朝鮮族か?それとも脱北者か?』と聞かれました。そして「とりあえずかけ直すから」と言われたので受話器を置いてずっと待っていたのです。でも電話はかかってきませんでした」
韓国で「またかけ直す」という言い回しが、遠回しに「断る」意味合いで使われていることを彼女は知らなかった。
「韓国人はみんな嘘つきだ」と思い込んだ。怒りと悲しみで心身ともに疲弊しきった。そんな時「脱北者が韓国に馴染めず、大きな問題になっている」というニュースを見て正気を取り戻す。
韓方医への道が絶たれ「死ぬ」ことも考えた
「北朝鮮から来た人間も韓国に適応して立派に仕事ができることを韓国社会に見せつけたいと思いました。それで自分にできる仕事は何だろうか?と考えた時に答えは一つしかありませんでした。やはり韓方医しかないと」
早速、彼女は「韓国統一省」を訪ねた。脱北する時に、北朝鮮で取得した医師免許を持ってくることが出来なかったので学位証明書を発行してもらった。
しかし彼女が韓方医として働くには苦難が待ち構えていた。
「学歴が認定されたので韓方医試験を受けようしたんですが受験資格がないと言われたんです。開いた口が塞がりませんでした」
韓国の大学に編入すればどうかと提案されたので、気を取り戻してそうすることにしたが、ここでも壁に当たる。
「今度は、過去に取得したのと同じ専攻を二度履修することはできないと言われたんです」
彼女は理不尽な対応に怒りを抑えられなかったという。
「北朝鮮での学歴を認められたのに韓国の大学にも通えず韓方医試験も受けられないなんて、人を馬鹿にするのもいい加減にしてくれ!と思いました。北朝鮮で一緒に働いていた同僚に『アイツはなんのために韓国に行ったんだ?』と思われたらと考えると死にたくなりました」
やけっぱちになったキムさんは死を選ぶことも考えたが、ふと思い直して自分に問うてみた。
(命を断つ決心をした今は、私の人生で最も辛い時期なのだろうか。今以上に辛いことはなかったのだろうか)
「冷静に振り返ってみると北朝鮮でその時よりも辛い時期が何度もあったんですよ。それでもその時は死のうとは思わなかった。なぜ今死のうと思ったのかじっくり考えてみました」
「よくよく考えてみると『韓方医』にこだわって欲張っていたからなんですね」
その時、彼女のまぶたには中国で出会った脱北者たちの顔が浮かんだという。
「韓国に来たくても来られない、中国にまだいる多くの脱北者のことを思うと、私は『なんて贅沢な悩みをしてるんだ』と。それから欲を捨てました」
韓国国会の場で証言、認められた医学部「編入」
それから彼女は、まずは自分の立場を冷静に見ながらじっくりと韓方医に戻る道を探り始めた。
そして韓方医としての知識を発揮できる仕事を得る。ネットで「失郷民(朝鮮戦争の時に北朝鮮から韓国に逃げてきた人々)」の健康相談を受ける仕事だった。
今まで培った医学の知識を活かす仕事をしつつも、韓方医への道を決して諦めなかった。焦らず流れに任せることを決心した。
気持ちの持ちようを変えて仕事をしていると世の中も変わりはじめた。仕事を通じて知り合った人々が彼女の話を聞いて国会に陳情を出してくれたのだ。そのことがきっかけで、韓国国会の場で証言まですることになったのだ。
?国会での証言をきっかけに「編入を認めないのは不合理だ」という結論が出る。そして、望みに望んだ医学部への編入が認められたのだ!
それから4年後、北朝鮮から医師免許を持ち出せなかった場合でも合理的な検証を経て韓方医試験の受験資格を認めると法律が改正された。
彼女にはすぐに試験が受けられる資格が与えられたが、4年間苦労を共にした仲間たちと医学部に残る道を選択した。
「韓方医学は伝統医学なので北と南でさほど違いはありません。大学で新たに学ぶことは多くありませんでしたが、大学の同期という大切な仲間を得られたのでとても価値のある時間でした」
脱北者に「平和」と「幸せ」を伝えたい
彼女は2011年から人文学科の博士課程に進学した。患者の置かれた状況と心を理解し、洞察力のある医師になるためだ。そして、ジン韓医院を開き、今ではテレビに引っ張りだこになった。
「自分の心の中から見つけ出した平和と幸せを他の脱北者にも伝えたいですね」
今では患者が楽になることほど嬉しいことはないという。
「欲を捨ててからは心が楽になって表情も明るくなりました。そうなると自然と周りに人が集まるようになって、人と人との絆で進むべき道を築くことができました」
人間関係や人生で行き詰まった時は「相手が心を開くのを待つのではなく、自分のほうから先に歩み寄るべき」と秘訣を教えてくれた。
北朝鮮、中国、韓国。それぞれの地で辛酸をなめてきたキムさんの言葉には普通の医者とはまたちがった重みがある。
「助けてもらうことをあまり負担に思わず、助けてもらったらいつかまた別の人を助けたらいいのです。人はそうやって生きていくんですよ」