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養父は体が回復した後、それまで経験したことを語り出した。

“帰国事業は北朝鮮の政治的、経済的目的で行なわれた。当局者たちは帰国者の運命など、最初から眼中になかった。そして、今は自分達の偽善的な行為の目撃者、体験者となった帰国者があやうくなった。だから、大々的な帰国者狩りに乗り出したと言うわけだ”

“自分達の野心の為なら、人の命など虫けらほどにも思わないのが北の為政者達だ。わしは今度全面否定して奇跡的に釈放されたけれど、多くの人がひどい拷問に耐えられなくて、やってもいないことをやったと認めてしまった。この半年の間、わしは、いままで想像したこともない一生忘れられない体験をした。帰国者たちは、北朝鮮為政者たちの釣の餌に過ぎなかった”

養父が連行された理由は、朝鮮労働党の入党を拒否したからだった。養父は帰国後の経験から、労働党にだまされたと考えていたため入党を拒否した。養父はコさんたちの入党にも反対した。その後養父は1977年まで家で療養し、1980年まで以前働いていた製紙機械工場に勤めた。養父は朝鮮総連にだまされて多くの人を北朝鮮に帰国させたことは自分にも責任があると痛嘆して晩年を過ごしたという。

飢え死にした人の遺体を運び、北の現実を悟る

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コさんは1976年に新義州の第1師範大学に進学し、卒業後は平安北道の体育団で講師として働いた。1980年には医者である夫に会い結婚し、2人の子供を授かった。当時、安定した生活を送っていたコさんは、北朝鮮の政治宣伝に染まるようになり、いつかは金正日がアメリカを叩き伏せて世界最強国になるという期待まで抱いていた。

コさんの考えが変わるようになったのは、1990年代半ばからだった。講師をしていた彼女は、大学から緊急の連絡を受けて、35日間飢え死にした人の遺体を運ぶ作業に従事した。北朝鮮政府はこの事実が外部に知られてはならないため、秘密厳守を命じたという。

遺体には身元を証明できるものが1つもなかったが、この人たちはこの土地の人ではなく、飢餓のため北から来た人という事実が明らかになった。この頃から、ひどい飢餓が北朝鮮全域を襲った。コさんはこうした経験を通して、平壌と地方、そして人と人の間にどうして格差があるのか考えるようになった。

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コさんも当時までは、北朝鮮を脱出することは考えていなかったという。だが、1996年に帰国者の男性にお金を借したことを理由に大学の講師を解任され、子供まで追放の命令を受けた。この時、コさんは初めて金日成政権に対する反発を感じたという。コさんは党と法機関に抗議をしたが、党の幹部はむしろ自分たちの軽率な仕事の処理が問題視されるか心配し、早期追放を決定した。コさんは子供達の将来を考え、脱北を決心する。

脱北、強制送還、そして再脱北

コさんは1年半余りの準備の末、鴨緑江を渡って脱北に成功した。瀋陽にたどり着き、中国の公民証を得るために手元のお金を全部払ったが結局それは詐汲セったことが分かる。コさんは子供と引き離されてどこかへ売られることになった。だが、売られて行く途中にすきを見て逃げ出した。煙台市でさまよっていたコさんは大学を訪れ、韓国人の留学生の助けで留学生用の食堂で働き、子供も呼びよせることができた。その後、脱北者が韓国や日本に行けるよう支援していた韓国人のチェ・ヨンフン氏に会ったが、煙台から船に乗って脱出しようとした脱北者たちが中国の公安に逮捕される事件が発生する。

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コさんは大々的な逮捕作戦が始まればこれまで手伝ってくれた人が被害にあうと考え、公安に出頭した。だが、中国公安は彼女を朝鮮に送還した。2003年1月23日、コさんは他の送還者と一緒に北朝鮮に送還されるバスの中で、靴に唐阨tけていた指輪やアクセサリー、留置場で手に入れたはしや針金、プラスチックのかけらを飲み込んだ。

コさんは船の中で苦痛を訴えたが船が出発したため、公安員の前でボタンまで飲み込んだという。公安員は彼女が入れ歯も飲むかも知れないとペンチで無理矢理抜き取ろうとし、その際他の歯まで抜いてしまった。血だらけになったコさんはそのまま気を失った。意識が戻ったコさんの体を公安員がテープでベッドに唐阨tけたが、近づいた公安員が持っていたはさみをコさんは奪い取り、自らの左肩を刺した。

新義州の保衛部に入れられたコさんが回復してくると、看守たちは拷問を始めた。気を失うまでありとあらゆる暴力が加えられたという。看守はコさんに、煙台事件に加わったのではないかと追及した。

2003年4月、拷問と栄養失調で生けるしかばねとなったコさんは病院に移送された。体が回復すると一時的に釈放され、2002年に北京から送還されて収監されていた息子と再会した。丈夫だった息子は40キロに及ばないぐらいやせこけ、一人で歩くこともできない状態だった。コさんは息子と一緒に平安北道の追放区域に送られた。だが、コさんは脱出することを考え続け、2003年末に脱北に成功して中国にいた娘と再会し、2005年に日本に入国することができた。