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最初は苦労も多かった。資金もなく、言葉も通じない。日本に来て3ヶ月たった頃アルバイトを始めた。簡単な挨拶の言葉しかできなかったが、生活費と学費のためには仕方なかった。日本語学校の授業が終わった後、夜遅くまでアルバイトをする生活が続いた。20歳ちょっと過ぎのャjさんは、厨房で1日6時間以上皿洗いだけをした。

“初めて手袋をはめてお皿を洗った時、お皿がすべってよく割ってしまいました。お皿を1枚割ると1000円弁償しなければならなかったので、素手でお皿を洗いました。一月くらい経ったら手が醜く荒れてしまいました。何よりも、何回洗っても消えない食べ物の腐ったにおいが本当に嫌でした。でも自由を求めて北朝鮮を脱出したため、日本で多くのことを経験して見たかったのです。大変でしたが、新しいことができるという希望で耐えました”

チュンシクさんも留学の初期には苦労した。食堂やスーパー、居酒屋、コンビニのアルバイトなど、したことがない仕事はない。日本語ができないという理由で他の人よりも時給が少なかったが、誰よりも熱心に仕事をした。だが、数ヶ月分の月給をもらうことができなかったこともある。何よりもチュンシクさんは、話せないという理由で無視される時が一番堪え難かったと打ち明けた。

“日本に来てから3ヶ月ほど経って、すぐに仕事を始めました。最初に食堂の厨房補助として働きましたが、私の考えを伝えることができなかった時が一番辛かったです。社長がピラフの作り方を教えてくれましたが、全然理解できませんでした。社長には聞きとることができないといってぶたれました。社長が手を上げて無視するので、他のアルバイト生も私を無視します。肉体的に辛いというよりも、無視されることが本当に嫌でした”

ャjさんは去年アルバイトをしていた所でボーイフレンドに会った。ボーイフレンドと付き合っていた時、母親のことを思い出したという。

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“私が脱北者出身ということを知った時、彼がしばらく離れていようと言いました。ボーイフレンドは、‘北朝鮮は怖くて北朝鮮に対してよくないイメージを持っている’と言いました。当時、本当に悲しかったです。特に彼が‘両親に私を紹介したいけれど、孤児で北朝鮮から来たということが気にかかる’と言った時、何気ないふりをしていたけれども、お母さんのことを沢山考えました”

脱北者として経験した悲しみは大きい。ャjさんは最近、日本のNHK放送が自分のことを放送した後、アルバイトに応募しても何の理由もなく落ちたという。2006年に北朝鮮がミサイルを発射したと伝わった当時、脱北者という理由でタクシーから降ろされた経験もある。

チュンシクさんはNHKの放送後、同じ科の日本人の友達が自分を眺める態度が変わったと話した。講義室の後ろで陰口を言う人もいたという。

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“脱北者だからといって挫折はしない…他の人よりよくやっている姿を見せたい”

韓国と同様に、脱北者に対する日本社会の先入観が2人を一層悲しませた。だが、兄妹は挫折しなかった。チュンシクさんは、むしろ時間が経つほど日本の留学生活に自信を持つようになったと言った。

“北朝鮮と中国で苦労したことを思えば、これくらい何でもありません。もちろん最初は大変でしたが、こういう過程は誰もが経験するんじゃないでしょうか。今は日本の生活が本当に楽しいです。もう脱北者だからといって恥ずかしくはありません。むしろ、日本の生活は脱北者という足かせから私を解放してくれました。もちろん日本の人たちも脱北者に対する認識がよいわけではありませんが、日本語が上達して自信を持つようになりました。脱北者でも別に不便ではありません”

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兄妹は韓国での生活の方が大変だったという。韓国ではどこに行っても‘脱北者’というレッテルが付きまとった。脱北者と言えば表情は変わる韓国の人を見る度に、兄妹は‘脱北者も他の人よりよくできるということを見せたい’と覚悟を持つようになったと言う。

兄妹は1997年に脱北してから11年経った今他郷で生活している。ャjさんは北朝鮮よりも中国や韓国、日本に滞在した時間の方が長い。

日本で2人に奨学金を支援している知人は記者との通話で、“北朝鮮で両親を亡くし、苦難の行軍の時期に餓死直前の状況まで経験したため、どのような困難も勝ち抜けるだろう”と励ました。

中国語と日本語を駆使する兄妹は、イギリスに留学したいとも考えている。夢に向かって挑戦する20代の青春の希望だけがあふれていた。