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映画‘生の痕跡’のシナリオを書いた作家イ・チュングは韓国でも名が知られている作家だ。

彼は平壌市中区域キョグ洞で生まれ、平壌市の高等機械技術学校を卒業して機械製作工として働いた。文学の才狽?Fめられて、1963年に金日成総合大学の語文学部創作科に入学し、1967年から‘朝鮮文学創作社’の作家として活動した。

1974年に映画‘熱管理工’のシナリオを書いて映画界に登場し、1970年代には金日成讃揚映画‘この世の果てまで’と、‘私たち農場女性技師’を書いたが、その後際立った作品を書くことができず、あまり注目を引くことはなかった。

イ・チュングの名が北朝鮮に広く知られるようになったのは、1985年の映画‘春の日の雪解け’を出してからだった。その後、‘生の痕跡’、‘桔梗の花’、‘庶l回目の冬’、‘郡党責任書記’、‘心に残る人’、‘保証’、‘大河と泡’、‘待ってくれ’、‘革命家’、‘青春の心’、‘自分に聞いてほしい’、‘孝女’、‘曲折が多い運命’などを次々と発表して最高作家の待遇を受けた。

また、1990年代初めに越北したファン・ャMョンと一緒に光州民衆抗争を扱った映画‘あなたのための交響詩’を共同創作した。こうした功績で、彼は1980年代に最高人民会議の代議員になり、金日成勲章を受賞し、労力英雄の称号まで受けた。1990年代半ばまで‘朝鮮映画文学創作社社長’、‘凡民連北側本部中央委員’を歴任した。

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以前から糖尿病に苦しんでいたイ・チュングは病魔と戦いながら、死に物狂いで執筆活動を続けた。だが、彼の成功を嫉妬する周囲の人々が‘党生活総和’をしばしば欠席し、党生活を誠実にしていないという問題を持ち出し、彼を攻撃した。

弱り目に崇り目で、作品の盗作問題までとりざたされ、‘批判舞台’に頻繁に呼ばれ、新たに創作した芸術映画‘心に残る人’が男女の三角関係を扱ったという理由で結局解任され、1998年に両江道デホンタン郡に追放された。

北朝鮮では社会主義的リアリズム文学の原則に合わないという理由で、三角関係を扱った映画や小説は認めていない。このため、‘心に残る人’は今までも未完成のままである。

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イ・チュングはデホンタン郡で病気と生活苦に苦労したが、2003年に復権して最高人民会議の代議員に就任した。2005年9月22日に連合ニュ−スが対北消息筋の言葉を引用して、イ・チュングが“2004年から党の宣伝扇動部副部長に抜擢され、映画分野を担当している”と報道したが、具体的なことはよく分からない。

◆ 乳腺癌で死亡した俳優オ・ミラン

‘生の痕跡’で、主人公ソ・チンジュ役を演じた人民俳優オ・ミランは、人民軍‘4.25映画撮影所’出身だ。父親のオ・ヒャンムン(2000年10月に死亡)は朝鮮戦争の時に越北した俳優として、北朝鮮で‘我が家の問題’をはじめとする多くの映画に出演した。

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オ・ミランは1979年から平壌芸術団の舞踊俳優として活動していたが、1980年に映画‘祝砲が上がる’で映画界にデビューした。‘彼らの姿から’、‘従軍記者の手記’、‘新政権の誕生’、‘民族と運命’、‘桔梗の花’、‘新星’、‘曲折が多い運命’、‘生の痕跡’などで主人公として活躍して人気を博した。

特に、1987年9月に平壌で開催された映画祭で、‘桔梗の花’で最優秀演技賞を受賞し、1990年10月には第1回南北映画祭(ニューヨーク)に参加して最優秀南北映画芸術人に選定された。1988年に人民俳優、国旗勳章1級を授与され、2002年11月には‘金日成賞’を受賞した。

オ・ミランは初々しい容貌と共に、すぐれた演技力で何度も金正日の個別演技指導を受けたといわれ、北朝鮮の住民の間では、映画俳優ホン・ヨンヒと共に金正日の内縁の女性といううわさも広まった。

彼女は乳腺癌で10年以上闘病生活を送り、金正日の特別な措置で、専門医療陣に看護され、外国の高い薬までもらえる特恵を受けたが、2006年6月に51歳の若さで他界した。