その後、平壌中央テレビで、一週間の間ずっとインタビュー場面が放映されたが、私の姿が大きくそして詳細に放映されて、ホテルの商店や食堂で、人々は私がアメリカから来た新聞記者だとしばらく思っており、あいさつを受けたりと忙しかった。
89年7月1日、5・1競技場は午後3時から一般の観客が入場をして、林秀卿は一人で全大協の旗を振りながら15万の割れんばかりの歓声と拍手を浴びて入場した。主席団の前ではしばらく金日成にあいさつし、足取りも堂々と運動場を回った。まるで今回の行事の主演は林秀卿であるかのように興奮した雰囲気だった。
結果的に韓国のソウルオリンピックは北朝鮮の青年学生祝典を刺激した。しかし、これは北朝鮮を更なる貧窮の中に突き落とした。この学生祝典のために、北朝鮮はおびただしい経済的打撃を受けた。
この日、新しい通りである光復通りでは、日本の新潟港を出航した万景峰号に、様々な品物を積んで平壌に到着した朝鮮総連の数百人が、屋台でいろいろな食べ物市場を準備し、売り出して、光復通りに新しく建てられたマンションは、遠い国から来た人々にあてがった。平壌は一晩中食べて踊りながら、暮し向きがよくなったかのように夜をあかした。