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学校周辺での学生たちの集団暴力は、韓国だけの問題ではない。

統制と監視が殺伐な北朝鮮にも、校内暴力や集団暴力がある。北朝鮮でも、中学生(15〜17歳)の校内暴力と集団暴力が深刻な社会問題となった時期があった。

規模と暴力の程度も、韓国の人々の予想を越えるほど深刻だった。私が韓国に来て見た映画‘チング(友達)’も、北朝鮮の校内暴力に比べれば何でもなかった。

北朝鮮の校内暴力は80年代後半から90年代初頭の絶頂期には、少なくとも数百人、多くて1千人単位に増えてた。

私が住んでいだ都市(咸興)のすべての高等中学校(韓国の高等学校)で’組職’が形成され、徐徐に各学校の組織を網羅した、幾つかの大きな組職に発展した。

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思春期の’小英雄心理’が暴力を拡大

1990年1月の冷えきった冬のある日。 咸興市のフェサン区域、ホリョン川の堤防の両岸に、それぞれ数百人の学生(15〜17歳)が集まって来た。彼らの中の数人はかねや太鼓を持っており、残りの学生たちは野球バットや砂利、角材などで武装した。

しばらくしてかねと太鼓の音が騒々しい中、両側の陣営から一斉に“出撃!”という掛け声が出た。同時に、空が真っ黒になるほど両岸に砂利が降りそそいだ。その中に、当時中学生だった私と友達もいた。

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私の友達ミョンイルは、けんかが上手なことで知られ、特有の粘り強さから、フェサン区域の同年齢の間でうわさが立った友達だった。その日もミョンイルは人民軍の冬綿帽子をかぶって、手には野球バットを持って私たちの先頭に立って、‘勇猛’に戦った。

突撃ででくわした両者は、1メートルの距離を置いて互いに向き合い、野球バットと角材を振り回した。後に立った友達は手がしびれるほど砂利を投げつけた。10分余りの攻防戦のあげく、私の属した組が先に勝機を得て相手を500メートル程押し出した。

一進一退の攻防戦は、先に押された方が負ける。また先に押された側は、過半数が負傷に耐えなければならないほど、被害が甚だしかった。

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初回で勝った私たちの組職は’親分’間の談判で、1時間程休息を取って、隊を整備した後、2回戦に突入した。

2回戦は先方の先攻で始まった。1回戦と同様に、互いに向き合って一進一退を繰り返すうち、私たちの組職の後尾が崩れて押されだした。先頭で野球バットを振り回していたミョンイルは、数署lの私たちの仲間と一緒に、相手に包囲されて無差別乱打にあっていた。

一目散に逃げていた時、誰かが“ミョンイルが抜け出して来ることができなかった”と叫んだ。その声に皆我に返って、また攻撃に出た。包囲された仲間と乱闘をした相手は、予想しなかった私たちの再反撃で、再び後に押された。

この日、ミョンイルは両ほおが破れて頭が何カ所も裂けるなど、ひどい負傷を負った。私も2回戦で後に押された時、頭に一つ石をぶつけられたが、幸いに厚い綿帽子のお陰で頭の負傷は凾黷ス。この日のけんかはミョンイルが主導して先頭で勝機をつかんだお陰で、私たちが二回ともすべて丸勝ちする快挙(?)を成した。

この事件でミョンイルは誰も見下すことができない、私たちの偶像になった。 また、ミョンイルの武勳談は、フェサン区域全体の高等中学校の5、6年生たちの間で長い間’有名人’になる契機になった。

その日、両者に分かれて陣を張った数百人の学生たちは、当時咸興市のフェサン区域の覇権を握った’刑事’(親分のニックネーム)派と、ソン`ョン区域の覇権者’マタペル’(親分のニックネーム、キューバ映画’農場主’の反乱軍の親分の名前)派の学生たちだった。

しかし、その日のけんかで勝敗が正確に出なかったという議論がでた。このため、すなわち’親分’間の談判があり、 親分たちは”2月の一ヶ月間を決闘の月”とすることを約束した。

約束の内容は”互いの組織員どうし、咸興市のどの区域、どの地域ででくわしても、無条件けんかに突入する”というものだった。この時から私たちは、時と場所を問わずに、マタペル派とけんかをした。

一度はフェサン区域のチョンソン洞にあるウォンキョ橋を基点とする、無軌道電車(電気のように動くバス)と、市民が沢山いる通りの真ん中で、けんかが起こった。けんかが起きると道路はあっという間に学生たちの戦場に変わり、行き交ったバスは道端に放置されて、市民が緊急待避する騷動まで起った。

食糧難のため、決闘も自然消滅

90年代に入り、青少年たちの暴力が度を超えると、北朝鮮政府は集中的な取り締まりに出た。3輪モーターサイクルで機動巡察隊を編成して、学生たちの決闘の現場に24時間、直ちに出動可能な体制を作って、現場で学生たちを検挙した。

また、学校当局と緊密に連携して、学生たちの授業出席時間をいちいちチェックし、決闘を何度も組織したり、主導した学生は、少年教化所(少年院)に送った。ひいてはその家族まで山里の奥地に追放する措置を取った。校内暴力がどれほど深刻だったのかを見せてくれる措置だった。特に頭が裂けて登校した学生が、学校当局と担当の安全員(警察)の1次調査の対象だった。

90年8月にはフェサン区域内のすべての中学校5、6年の男子学生2千人以上を、区域の文化会館に召集した。学校暴力の深刻性と弊害を列挙して、主導者(学生)たちの罪状を列挙した後、区域の安全部(警察署)の安全員(警察)らが現場で手かせをかけて、少年教化所に連行した。

当時、ソン`ョン区域でいばっていた学生の親分、マタペルは、少年教化3年の刑に処されて監獄へ行った。ここに親まで加勢して、夕方遅くに外に出ることができないように統制し、不良学生たちが家に来ることができないように統制し、決闘の勢いも衰えた。

そのうち、北朝鮮を甚だしい食糧難が襲うようになると、決闘も自然に消滅した。