“北の女性は戦う, 南の女性は打たれる”
共に女性学を勉強している韓国の友人が、一学期の間脱北女性にインタビューをして、南北朝鮮の女性の夫婦げんかの差を一言で表現した言葉だ。フェミニズムの眩しい役割で、女性の意識が急成長した韓国社会に住む人にとっては、少し怪訝に聞こえるかもしれない。
韓国で女性たちがより堂々と行動するようになったため、夫婦げんかにもそうした堂々とした姿が現われるのが論理的だからだ。だが、現実はそうではないようだ。女性意識が不毛の状態にある北朝鮮で、むしろ女性はもっと堂々としているようだ。
北朝鮮の女性は日常生活の中で、男性に対して韓国の女性よりも、本当に堂々としているのだろうか。この言葉を一言で断定することができない複合的な原理が、北朝鮮の社会には存在している。
北朝鮮は早くから’女性解放’を語り、女性たちを社会の場に引き入れた結果、男女両性の社会的関係が韓国に比べて比較的円滑な状態にある。これは女性の向上した社会的地位の産物と言うよりは、両性が長い間、一つの場で働いて来た過程で、互いが互いに慣れた結果だ。また、性に対する保守層が形成されていない。社会的な性意識が未熟で、まだ性が商品化されていないため存在する開放的性文化が、両性の関係を柔軟にさせている部分もある。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面北朝鮮に残る根深い女性卑下意識
だが、家庭では北朝鮮の女性はそれとは正反対だ。韓国には‘女性は結婚すれば夫が稼いでくれるお金で暮らし、子供を教育することが理想的だ’という思考が残っているのに比べて、北朝鮮では‘女性が家にばかりいたら、町内でうわさになり、夫に恥をかかせるのが常だ’という俗説が、食糧難以前まで、多くの人の意識を支配して来たことだけを見ても分かる。
北朝鮮の家庭では、女性は人格として意味を喪失した非人格的存在だ。北朝鮮の家庭では、子供の教育や家事経営などの一切の家事業務は女性が担当する。ここでより深刻な問題は、多くの北朝鮮の男性の中に存在する、日常化された女性卑下意識だ。北朝鮮の女性が、両肩を押さえ付ける社会や家庭の負担よりも、脱け出すのが困難で苦しむことは、北朝鮮の男性が無意識的に現わす女性憎悪の行為と言葉の暴力だ。これは北朝鮮社会が、女性を一つの人格として尊重する意識化事業を、今まで念頭に置いてこなかったためだ。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面だが、北朝鮮の社会には女性が男性に対して’堂々としているように’させる要因が何種類かある。
第一に、国家が追求してきた長期的な閉鎖政治のため、全国が自閉状態に陷るようになり、これにより男性の対外活動を無慈悲に遮断させたことにある。
日本のある小説家は、小説の中でこのように打ち明けた。女性の活動の舞台は国内にとどまっていても大きな問題にはならないが、男性の活動舞台を国内に限定させた時、男性の女性化、児童化現象が起きて、国家は直ちに無気力状態に陷るようになるという。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面もちろん、小説家が男女の活動の舞台を国内または国外に限り、両性を差別化させた意識には問題があるが、北朝鮮の鎖国政策がもたらす人間の意志の消滅の程度を明らかに見せてくれるという点については、参考するに値する余地があったと思われる。
第二に、1990年代半ばに北朝鮮で本格化した食糧難と同時に活性化した市場は、男性を萎縮させる結果を再びもたらした。まず、市場という空間を私的な空間と見る北朝鮮の歪曲された市場文化が、男性の積極的な市場への進出を塞ぐ障害物となった。‘市場は私的だ!’という異常な通念は、北朝鮮に残存する儒教概念ともその脈を共にしているが、‘男性は私的な場所には出ない’という儒教的思考が、当時唯一の生存の舞台だった市場に男性が顔を背けることで、男性社会の普遍的な活動意欲を再び衰退させた。
当時、市場に跳び込むしかなかった女性たちは、多くの犠牲を払いながら、たとえわずかでも、経験と金銭という大きな包みを両手に握ることになったが、これは台所経済を専門としていた女性に、家庭で夫に対して声を高めさせた根本になった。生活の場における女性の役割が高まったのである。
96年、南浦市夫殺害事件
さらに、配給の中断で活性化した北朝鮮の市場文化は、北朝鮮の住民の首領に対する’忠実性’という思考を実利主義という思考に急激に変えたが、配給と賃金を持ってくることができずに、家庭で家長としての権威を喪失した男性は、市場での活動で家族の生計を立てる女性の前に、実権を差し出すしかない暗鬱な境遇に直面するようになった。
こうした現象は、男性の生存を脅かす危機に直結した。苦難の行軍の時期に、40~50代の家長の餓死の割合が、専業主婦に比べてはるかに高いことが、その時代を経験した人々に知られた。
北朝鮮の男性の存在を脅かしたのは、体制と餓死の脅威だけではなかった。一人の困り者に転落してしまった男性に対する女性一般の憎悪心も彼をけしかけた。
その極端な事例が、1996年に南浦市で起きた、3人の女性の計画的な夫殺害事件だった。この3人の女性は、一緒に商売をして親しくなったが、彼女たちの間には共通した苦痛があった。夫の問題だった。彼女たちの夫は一様に、家で部屋の雑巾がけもせず、酒と肉、タバコを毎日買ってきて捧げるように言い、妻たちを虐待した、かたきのような存在だった。
彼女たちが市場で商売をして、夜おそく帰って来れば、子供たちは他の人の家にあずけられたままで、夫は友人を引き入れてカード遊びに夢中だった。こうした境遇の共通性から、彼女たちは夫殺害の陰謀を企むようになった。彼女たちは計画を実行に移した。3人の女性が一軒ずつ押しかけて夫を殺し始めたが、2人目まで成功して、3人目に失敗して、結局3人の女性は全員銃殺された。北朝鮮のある女性詩人はこの事件を’北朝鮮の女性の反男性革命’と描いた。
“北の女性は戦う!”という言葉は当たっている。“南の女性は打たれる!”、この言葉はまだよく分からない。
北の女性は戦う。そうだ。彼女たちは今、戦っている。夫と戦うということではない。生存のため、人間的なものを非人間的にさせる権力に対立して、彼女たちは決して黙っていないという意味だ。