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今回から梨花女大統一学研究院のイ・スンヨル研究委員の「新朝鮮半島策略」を連載します。20回程にわたる連載では、約100年前の安重根義士の「東洋平和論」に立脚し、朝鮮半島と東北アジアの平和定着のための解法を提示しようと思います。現在の朝鮮半島情勢と100年余り前の朝鮮半島情勢が互いに共通点があるだけに、安重根の「東洋平和論」に注目すべきとの著者の指摘は興味をそそります。著者は特に朴槿恵政権の主要対北政策基調である「朝鮮半島信頼プロセス」に東洋平和論を重ね合わせ、北朝鮮問題だけでなく東北アジアと日中米間の葛藤を解決する対案を提示しています。読者の皆様の多大な声援を宜しくお願いします。


1880年9月、日本への修信使として派遣されたキム・ホンジプは、朝廷と国全体を転覆させた一冊の戦略文書を高宗(李氏朝鮮第26代国王)に紹介した。これは日本駐在中国外交官だった黃遵憲が著した『朝鮮策略』のことだが、19世紀後半当時の世界情勢を考慮した上で、朝鮮が生き残る道を提示した外交戦略書だった。黃遵憲は同時期の朝鮮が生き残るための外交戦略の核心を「親中」「結日」「連米」という国際関係を土台に富国強兵を図ることを提案し、高宗の命を受けた朝鮮朝廷はすぐに内容を回覧し始めた。


『朝鮮策略』が19世紀後半の西勢東漸の時代において、国家の生存戦略としてそれなりの意味を持つ理由は、イギリスの世界覇権という国際秩序を土台に、東北アジアで朝鮮が取るべき国家戦略の核心を「反ロシア」に置いたためである。「地球上にとてつもなく大きい国がある、ロシアという」で始まる『朝鮮策略』の主な警戒対象はまさにロシアだった。そのため『朝鮮策略』はアジアの地理的要衝地である朝鮮に対し、ロシアの南下阻止という国際政治の冷厳な現実を直視せよという忠告だったといえる。もし朝鮮がこのような切迫した現実に気付かず「下策」と「無策」で対応するならば、災いは免れがたいという警告も込められていた。

『朝鮮策略』の勧告を受け入れることに決定した高宗は、これに沿った外交戦略の樹立を望んだが、朝鮮の国内政治事情はこうした国際情勢を理解するほどに成熟していなかった。『朝鮮策略』の内容が知れ渡るにつれ、嶺南地域を中心に全国的な為政斥邪運動が起こり、同過程で旧式軍隊の反乱である壬午軍乱が発生した。1882年の壬午軍乱は朝鮮を属国にしようとする中国の内政干渉を引き起こし、その結果、朝鮮は『朝鮮策略』で最も警戒していたロシアを引き込み中国をけん制しようとする過ちを犯した。朝鮮の開花派をはじめ閔氏勢力は『朝鮮策略』の提案とは正反対に次第にロシアに傾いていき、これは世界覇権国であるイギリスの世界戦略に真っ向から衝突するものだった。当時の朝鮮朝廷が国際情勢にいかに疎かったかを赤裸々に表している。

自らを守る最小限の力すら持ち得なかった朝鮮に対する世界覇権秩序からの脱落の代価は厳しいものだった。1895年、日清戦争で勝利した日本は、朝鮮に親露内閣が発足するや明成皇后を殺害する乙未事変を起こした。これに恐怖を覚えた高宗は日本の脅威から抜け出すため、さらにロシアに傾倒していった。1896年、高宗がロシア公使館に執務室を移したことは、「対露封鎖」というイギリスの東アジア政策で朝鮮の運命を日本の従属変数へと転落させる決定的な事件となった。


21世紀、朝鮮半島は新しい挑戦に直面している。20世紀初頭、恥辱の歴史を踏んでわずか半世紀ぶりに世界で最も驚くべき政治・経済的成果を収めたが、依然として朝鮮半島は100年前の新文明をまともに対処できなかった代価を払っている。世界的レベルの冷戦はすでに終結したが、朝鮮半島での冷戦は現在まで進行中であり、世界は超国家的多国間統合に向けた努力に傾注しているが、東北アジアは100年前の民族主義の歴史に回帰したかのような葛藤を繰り返している。


最近の東北アジアの葛藤の主要原因は、戦後秩序を認めない日本の右傾化である。1993年、日本軍の従軍慰安婦強制性を認めた「河野談話」と1995年、日本の太平洋戦争と植民地支配を謝罪した「村山談話」を否定する安倍は、9月の訪米当時、「私を右翼軍国主義者と呼びたいならそう呼べ」と述べ、戦後日本の在り方までを否定する過ちを犯している。


日本の右傾化が我々にとって悩みの種となる理由は、中国の台頭をけん制しようとする米国の東北アジア戦略の隙を利用しているためである。太平洋地域の「再均衡(rebalancing)」を宣言した米国の「アジア回帰(pivot to Asia)」政策と、これを阻止しようとする中国の「新型大国関係」は、今後の東北アジアでの米中覇権競争を予告する。過去、イギリスの勢力均衡戦略に忠実に従っていた日本は、再び米国の世界戦略に便乗し、東北アジアの秩序を再編しようという狙いを表面化させている。日本の右傾化の動きを非難する一方で、集団自衛権など日米軍事同盟を強化しようとする米国のジレンマが交錯するのもこうした理由による。


このようななかで我々をさらに困惑させるのは、朝鮮半島平和の重要な先決条件である北朝鮮の核問題の解決がますます困難になっているという点である。第1次北朝鮮核危機は1994年7月の米朝枠組み合意で一段落したが、2002年のブッシュ政権の登場とともに勃発した第2次北朝鮮核危機は依然として進行中だ。中国の仲裁で2003年に多国間安保協議体の「6カ国協議」が開始され、同過程で「9.19共同声明」を引き出すという成果もあったが、3回にわたる核実験で確認された北朝鮮の核保有の意志は押し曲げることができなかった。


また執権3年目を迎える金正恩政権の政治的状況も尋常でない。去年の12月12日、北朝鮮の実質的なナンバー2であり白頭血統の後見人だった張成沢が政治局拡大会議で「反党反革命宗派行為」との烙印を押され、会議場の外に連れ出されてから四日後に「国家転覆陰謀行為」容疑で死刑宣告を受けこの世を去った。金正恩がまだ権力を十分に固められていない状況で、張成沢の粛清は北朝鮮権力エリート集団の権力闘争をさらに促進させるだろう。結局、金正恩体制の不安定性は高まるしかない。そのため今後、北朝鮮の権力変化は朝鮮半島の平和と東北アジアの安定に大きな影響を及ぼすことになると思われる。

2014年、「新朝鮮半島策略」が必要な理由がまさにここにある。約130年前の黃遵憲の『朝鮮策略』でもそうだったように「新朝鮮半島策略」の核心は朝鮮半島と東北アジアをどう調和させていくかにかかっている。21世紀の朝鮮半島の平和と統一は、南北朝鮮だけでなく東北アジアの平和と統合の問題と決して分離することはできない。これはドイツ統一の基盤である「東方政策(Ostpolitik)」を立案したヴィリー・ブラント(Willy Brandt)総理が、ドイツ統一をドイツ内部だけの問題ではなく全ヨーロッパ統合の問題と認識し、これに向け東西ドイツ間の平和定着と東西ヨーロッパの平和共存と統合に向け献身したのと類似する。ではどうすれば朝鮮半島と東北アジアを調和させることができるのだろうか。


朴槿恵政権の外交安保政策の核心は「朝鮮半島信頼プロセス」だ。同政策は大きく二つの基調を提案している。ひとつは「信頼プロセス」を通し南北関係を正常化させ、朝鮮半島の平和を定着させることである。もうひとつは恒久的な平和構造として東北アジアの平和協力に向けた「ソウルプロセス」構想の推進だ。結論的に「朝鮮半島信頼プロセス」は朝鮮半島平和のための南北間の「信頼プロセス」と東北アジアの平和と協力のための「ソウルプロセス」が車のタイヤの如くともに回っていかなければならないという概念であることは明白だ。この実現に向け朴槿恵政権はヨーロッパ統合の出発点である1975年の「ヘルシンキプロセス(Helsinki Process)」をベンチマーキングの対象として提示した。


ヨーロッパが1972年、「ヨーロッパ安保協力会議(CSCE)」を手始めに1975年の「ヘルシンキ宣言」を通して東西両陣営の交流を促進させ、多国間統合のための制度化の道に踏み出したことは間違いなく参考する必要がある。しかし問題はヨーロッパの経験を文化歴史的背景が異なる朝鮮半島と東北アジアに適用させるためには、我々が共有し得る歴史認識が必要となってくる。我々は21世紀の望ましい朝鮮半島の運命を開拓していくため、19世紀以来、世界文明の変化にうまく対処することができなかった我々の歴史的経験を土台とし、朝鮮半島の現実を再び直視する必要がある。


そうした意味で安重根の「東洋平和論」は19世紀末と20世紀初めの朝鮮半島と東洋の平和に向け、東北アジア三国の水平的連帯と超国家的統合を主張した文明史的意味を持つ我々の歴史的理論のひとつである。何よりも安重根の「東洋平和論」は1945年の第二次世界大戦以降に始まった、ヨーロッパの超国家的統合の歴史よりもはるかに以前の1910年に記録されたものであり、彼の主張はヨーロッパの統合過程にてそのまま現実化されることで理論的完結性を持つ。


2014年、東北アジアの日中韓の三国は100年前の安重根と再び向き合っている。2013年6月、中国訪問当時、朴大統領はハルビン駅に安義士の標示石を設置するよう要請した。中国は意外にも安重根記念館設置を以って応じた。一方、彼の平和思想に対する中韓の態度とは異なり、「安重根はテロリスト」という菅義偉官房長官の会見は戦争犯罪に対する安倍政権の不十分な歴史認識をそのまま表している。


安重根は100年前に刑場で死を迎えたが、彼が残した未完成の「東洋平和論」は現在、分断の歴史を生きている我々に新たな意味の完成本を書き綴っていく責任を課している。果たしてその結論がどう出るかは誰にも分からないが、彼の思想に溶けこんでいた東洋平和の大意は依然として我々のものとして残っていることは否定できない事実である。「東洋平和論」は安重根の死とともに埋められたものではなく、今日の新たな朝鮮半島の歴史のために再び内容を追加していかなければならない歴史の空白だ。これが2014年「新朝鮮半島策略」を著す理由である。