韓国の尹錫悦大統領は3日夜、突如として「非常戒厳」を宣布。これを受け、戒厳司令官に就いた陸軍参謀総長の朴安洙(パク・アンス)大将が「国会と地方議会、政党の活動と政治的結社、集会、デモなど一切の政治活動を禁じる」とする布告を出し、戒厳軍部隊が国会に進入する事態となった。
ところが、非常戒厳は宣布から約2時間半後、国会の議決を受けて撤回され、尹錫悦が振るった強権は一夜ともたず瓦解することとなった。
(参考記事:韓国大統領「非常戒厳」を宣言…「従北反国家勢力を剔抉する」)
尹錫悦は宣布の会見で、行政官に対する弾劾訴追を乱発し、政府予算の大幅削減を強要する野党・共に民主党を激しく非難。「韓国国会は犯罪者集団の巣窟となり、立法独裁を通じて国家の司法行政システムを麻痺させ、自由民主主義体制の転覆を図っています」とまで述べた。
そして、「韓国国民の自由と幸福を略奪している破廉恥な従北反国家勢力を一挙に剔抉(てっけつ)し、自由憲政秩序を守るために非常戒厳を宣布します」と、その目的を明らかにしている。
強制捜査を受けていた「ある男」
尹錫悦はつまり、共に民主党がイコール「従北反国家勢力」だと言っているのだろうか。そのようにも読めるが、明確に言い切ってはいない。いずれにしても、尹錫悦は共に民主党の行動が「内乱を企てる明確な反国家行為」だと言いながら、それがなぜ「従北」――北朝鮮の意に従ったものだと言えるかについては、まったく説明していない。
仮に、共に民主党の行動が本当に北朝鮮の意に従ったものであると証明できるならば、尹錫悦の非常戒厳宣布はある程度、正当化されるかもしれない。今のところ、そのような展開が生まれる見込みは少ないが、韓国で何が起きているかを知るうえで、「従北反国家勢力」が何を指しているかを探ってみる意味はあるだろう。
ソウル警察庁安保捜査局は10月30日午前、国家保安法違反の疑いで、西大門区にある市民団体の事務室や、代表である男性A氏の自宅などを強制捜査した。容疑は、政府の許可なく北朝鮮関係者と接触を持ったとする国家保安法違反だ。この団体は9月28日、「尹錫悦政権退陣時局大会」を主導したが、「すべて合法的な活動だ」と反発している。
この男性A氏は2010年8月、情報機関・国家情報院(国情院)によって逮捕・起訴されている。2004年12月から2007年11月にかけて、中国・北京や北朝鮮・開城などで朝鮮労働党統一戦線部の工作員と会って指示を受け、反米活動などを繰り広げたとする容疑だった。
A氏は、韓国の左派勢力ではよく知られた存在だ。2008年5月2日から100日以上続き、当時の李明博政権を窮地に追い込んだ「米国産(狂牛病)牛肉輸入反対ろうそくデモ」で、中心的役割を負ったひとりだった。
当時のろうそくデモは、初期には「ろうそく文化祭」と呼ばれ平和的な様相だった。ところが徐々に過激化し、興奮した群衆が街にあふれ出て警察バスをロープで引きずり倒すなど破壊行為に及んだ。集会参加者の顔ぶれも制服姿の女子高生からベビーカーを押して出てきた主婦、会社員、市民団体、労働組合員、そして覆面をした「戦闘部隊」へと変わった。
「真の目標は政権崩壊」
デモを大規模化・過激化させたのは、「牛を利用して作る化粧品·生理用ナプキンなど600種の製品を使用しても狂牛病に伝染する」「韓国人の95%が狂牛病に脆弱な遺伝子を持っている」などとする根拠のないデマだった。そして、そうして世論を煽ったのが、市民団体の連合体である「狂牛病国民対策会議」だった。前出の男性A氏の団体は、その中核組織のひとつだった。
ソウル警察庁は同年6月30日、A氏の団体事務所を家宅捜索し、「執行政策組織責任者連席会議」と題された文書を押収。そこには「(米国との)再交渉という目標だけで短期に勝負をかけてはドロ沼にはまる恐れがある。我々の真の目標は、李明博政権を崩壊させること」という内容が含まれていた。また、「夜は国民がろうそくを持ち、昼は運動勢力がろうそくを持つなどして社会を麻痺させなければならない」「出勤車両が(街路に)進入する時点で機動隊が鎮圧(させるようにして)、都市を麻痺させる戦術が必要」などの文言もあった。
韓国の保守派や治安機関関係者の間には、当時のろうそくデモに北朝鮮の意図が作用していたと見る向きが根強くある。2004年~2007年に統一戦線部の指示を受けていたと見られたA氏の足跡は、この見方を補強するものでもあった。
北朝鮮と酷似した主張
しかし結局、A氏の「従北疑惑」は最終的に証明されなかった。
韓国の裁判所は一審から上告審まで一貫して、A氏らの反米活動の違法を認め有罪としながらも、北朝鮮から指示を受けたとする部分については証拠不十分により無罪としたのだ。
A氏はその後も、親北勢力の中心的存在であり続けているが、しばらくは南北間での平和的な交流事業の開催などが主な活動だった。ところが北朝鮮の金正恩総書記が南北の平和統一を放棄し、韓国を「第一の敵国」とする姿勢を打ち出すと、運動方針を転換。今年、巨大労組や宗教界とともに結成した新たな運動連合体を足場に、より戦闘的な動きを見せている。
この連合体の「出帆宣言文」は冒頭で、次のように述べている。
「韓米政府の『力による平和』基調と対北圧迫政策が全面化され、北側は「南北関係が敵対的な二つの国家関係で固着化」したと宣言した。国家安保を口実に平和主権と生命安保を踏みにじる尹錫悦政権の暴圧的な政治が続く中、朝鮮半島の軍事危機は戦争以来、最高のレベルへと駆け上がっている」
こうした北朝鮮の主張と重なる環境認識の下、尹政権との全面対決に動いており、その取り組みは言うまでもなく、国会の進歩勢力とも連携している。
検事だからこそ知る「限界」
だが、憲法により言論の自由が保障された韓国において、こうした認識を持ち、政府を批判すること自体はまったく合法だ。
また仮に、韓国の法に背いて北朝鮮の指令を受けている者がいるとしても、それは一部に過ぎず、大多数は法の許す範囲で自らが持つ権利を行使しているに過ぎない。
あるいは尹錫悦は、検事出身であるだけに、法に基づいた取り締まりの限界を感じていたのだろうか。法によって適切な結論を出せないまま、このままズルズルと時間が進めば、いずれ韓国社会に取り返しのつかない事態が起きると危惧したのだろうか。
その真実はもはや、本人が語ることによってしか、知ることができない。