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1990年代中頃以後に北朝鮮を離れた脱北者は全員が思い出したくない記憶を共有している。「苦難の行軍」と呼ばれる「大飢餓」に対する記憶だ。

北朝鮮の食糧難は1995年から1998年まで約4年の間で最も深刻な形で現れた。調査機関によって違うが、この期間に少なく見積もっても200万人から300万人が食糧難による飢えと病気で死亡したと推定される。

黄長ヨプ前北朝鮮労働党秘書は回顧録を通じて「1995年に入り平安北道(ピョンアンブクト)が洪水に見まわれ食糧問題が本格的に台頭しはじめた。日が経つに連れあらゆる場所で飢え死ぬ人々が大量に出てきた」と証言。

90年代初期に旧共産圏国家の没落以後北朝鮮の経済状況は急速に悪化した。しかし、北朝鮮の経済没落はすでに予告されていた。北朝鮮は、政権樹立以後、対外経済交流の比重を低く置いて自立経済路線を一貫して進めてきた。このような閉鎖経済および社会主義計画経済に対する執着で北朝鮮の経済実績不振は数十年間に及んで蓄積された。

さらには金正日は1980年代自身に対する独裁支配を強化するために平壌の現代化と偶像化事業を推進した。特に1989年の「第13次世界青年学生祝典(1988年ソウルオリンピックへの牽制が目的)」開催に莫大なお金を一度につぎ込み北朝鮮経済を回復不可能な状態にしてしまった。

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これに日照りや洪水などの自然災害が重なって国家主導の生産システムは完全に崩壊し、配給体系も止まってしまった。

「配給システムの崩壊」という直撃を受けた北朝鮮住民たちは食料を求めるために山と野原に出て行かざるをえなくなった。まともな食料を求めにくいことから木の根を掘って食べたり木の皮をはがして食べることさえした。「コチェビ」という新種の貧困層が生じたのもこの時だ。

国連の発表によれば1998年に北朝鮮栄養失調比率は60%まで上がった。「大飢餓」事態は今でも北朝鮮の慢性的な食糧難につながっており、国際社会の助けなしでは食糧難を解決できない状況にまで達している。特に20年にわたる食糧難は青少年への栄養供給をできなかったために成長発達障害を誘発したことは金正日政権が拭うことができない罪の中の一つに残るだろう。

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北朝鮮住民たちが飢餓に苦しんでいる時期も金正日は各種の珍しい山海珍味を楽しんだ。執権時期には1回の食事で2百万ウォンものウナギやキャビアをはじめとして子豚の丸焼き、フカヒレ、ヤギ肉など高価の食事を好んで食べた。洋酒1万本を保管している酒倉庫も保有している。

金正日の料理人だった藤本健二氏は「北朝鮮住民たちが飢餓で数百万が死んでいく瞬間にも私は金正日の珍しい食事を準備するために全世界を歩き回った」と証言している。

また金正日は飢餓に苦しむ北朝鮮住民たちを救済しようともせず「側近勢力をまとめる」「金日成の偶像化」などのために莫大な資金を投資した。

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特に側近勢力の忠誠心鼓吹を目的に、毎年2万人を対象に2000万ドルをプレゼント費用として使った。住民たちが金正日に進上したキジ・ノロ鹿・自然人参・蜜などは側近達へのプレゼントに変わった。自身の権力基盤を強固にするための措置だ。

また、北朝鮮全域の景色が良い場所に10ヶ所余りを越える個人別荘を建設して季節ごとに訪れて休養を楽しんだ。厚さ10センチメートル以上の特殊ガラスで底を作って水深100m海の中を見ることができるように設計された海底別荘までも保有している。

金正日はこの時期、金日成の遺体の永久保存と錦繻山(クムスサン)記念宮殿の増築に8億 9千万余ドルを使った。この費用は当時国際相場でトウモロコシ6百万トンを購入できる金額であり、仮に食糧購入に使われたとするなら飢餓状態を最小限で防げただろう。

黄長ヨプ前秘書も大飢餓の時期に金日成偶像化のために錦繻山(クムスサン)記念宮殿建設に莫大な資金と資源を投じるのを見た後に金正日との決別を決心したという。

「人民の食糧難には特別な措置を取らず金日成と自身の偶像化にだけ関心を注ぐのを見て怒りが込み上げた」と述べた。