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世界最長期独裁者として悪名高い金正日が17日死亡した。69歳だった。

金正日は北朝鮮政権を樹立した金日成の息子として生まれ、激しい後継競争の過程を経て、40年近く北朝鮮の最高権力者として君臨してきた。 金正日の権力掌握と独裁支配過程は、北朝鮮の現代史とその軌を一つにしている。

金正日は22歳で労働党中央委員会組織指導部指導員に任命され、本格的に北朝鮮政治に関与し始めた。 それ以降、中央委組織指導部指導員→宣伝扇動担当書記・組織指導部長→党中央委政治委員などを経て、実務感覚と経験を積んだ。

1973年には「3大革命小組運動」を組織することで労働党を掌握しはじめ、これを通じて自身の側近勢力と親衛部隊を確保し始めた。 1970年代中盤には政治局常務委員と党軍事委員会委員として、公式的な後継者としての歩みを始めた。

1990年に入り、国防委員会第1部委員長、朝鮮人民軍最高司令官、国防委員長、党総秘書などの職位に登りつめた。 こうして最高権力者としての地位を確実にした金正日は1994年、金日成の死後、国内外においても北朝鮮の第1人者として公式化された。

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絶対的な権力を振りかざしてきた金正日は、2008年の夏に脳卒中で倒れ生命の危機に瀕した。以後、病状が回復することもあったものの、健康に対する不安の影響で後継継承作業が急がれた。 2010年9月には44年ぶりに党代表者会を開催し、三男・金正恩を後継者として公式化した。

北朝鮮政界に進出し地位が上がるほど、金正日を指し示す修飾語も多様化した。 党中央委員会政治委員となった32歳の時には「党中央」と呼ばれ、その後に「唯一指導者」「敬愛する指導者同志」などの呼称がついた。

1983年に中国を非公式訪問し中国の実権者らと会談をする際には、「指導者」「最高司令官」などの新しい呼称で呼ばれ、「白頭光明星」「指導星」と呼ばれたこともあった。 1991年、朝鮮人民軍総司令官に就任する際には「もう一人の傑出した首領」、1993年に国防委員長になった際には「民族の親」「人民の指導者」と呼ばれた。

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金正日は特有の権力欲で金日成の権力を代行し、先述の数多くの称号は北朝鮮住民を対象にした「金日成・金正日偶像化」の手段として利用された。

金正日は特有の宣伝能力と権力掌握能力で、叔父の金英柱(キム・ヨンジュ)を押しのけ後継競争で優位を獲得し、統治者へと登りつめた。 金日成の嫡統という名分を強化する為に自身の生まれ年を変更した。実際は1941年生まれであるが、最後の一桁を金日成の生まれ年である1912年と合わせた。

また、出生地もロシア沿海州から白頭山の抗日遊撃隊密林の野営地に変更した。北朝鮮住民に指導者としての象徴性を大々的に知らせるためだった。

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