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氏名: キム・ヨンホ、イ・インスク(夫婦)
年齢: 農場員(男)、商人(女)
中国滞在目的: 脱北後 臨時居住

彼らは今年1月に北朝鮮を脱出し、5ヶ月程吉林省・珲春に居住している。インタビューは夫婦同時に行い、夫と夫人が交互に答えた。回答者の区別が必要な場合は、夫を(男)、夫人を(女)と表記した。インタビューから北朝鮮地方農村の生活像と思考形態を伺うことが出来る。

-いつここに来たのですか?

-今年の1月に脱北して渡ってきた。息子が1人いるが、一緒に連れてきた。

-北朝鮮ではどこに住んでいましたか?

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-咸鏡北道セッピョル郡だ。今は慶源郡と呼んでいる。(1977年、金日成偶像化のためにセッピョル郡と改名し、2005年にまた慶源郡と直された。咸鏡北道の東北端で、羅津-先鋒やインタビューが行われた中国の珲春と隣接している。)

-慶源郡に残った家族はいますか?

-(女)甥(または姪)がいるのだが、連れてこれるならそうしたい。私達の身の上もまだ不安定なので、そうすることが出来ない。連れてくる勇気がまだ出ない。

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-北朝鮮にいた時の職業は何でしたか?

-(女)私の夫は鉄道大学を卒業して鉄道・鉄路の検針員をしていた。鉄道浮?рチたり検査する仕事は儲かるが、検針はひどい。渡ってくる直前は農業をしていた。

-協同農場の実情はどうですか?

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-くれるもの(国家からの配給)だけでは食べていけない。朝鮮の農場の実情はどこも似たり寄ったりだ。分組(協同農場の基層組織で、農場生産の基本単位。普通は作業班の下部単位のこと。)の仕事をどれくらいしたか、個人的にどのくらい農業をしたかに寄って暮らし向きが変わってくる。元々の金持ちもいるし、貧農もいる。一人で暮らしている人や老人は大変だ。最近はきちんと分配が行われないから。(分配を)軍隊に優先的に持って行って、残りを数カ月分としてくれて終わりだ。農場の幹部や作業班長は良い暮らしをしている。そういう人達が貧しい人達に高利で食べ物を分ける。食べ物を分けてもらうと、その借りを返さなければいけない。返すとまたお金がなくなって食べ物を分けてもらわなければいけなくなるので、貧しい人達は常に大変な思いをしている。国家が十分にくれれば節約してでも解決することが出来るのに、そうではないから大変だ。

-国家の収穫の後、食糧分配はどのくらいもらいましたか?

-農場で、女は260日、男は300日働く。ここで分組がどれくらい計画を達成出来たか、個人的にどれくらい分組に奉仕したかによって分配の量が変わってくる。そこから(幹部達や軍人達が)あれこれ取って行って、残った分をもらっている。一時は私達も玄米を200キロ程(精米にして130〜140キロ)もらっていた。子供達は幼稚園や託児所から分配を受け取る。私達の子供は幼稚園に弁当を持って行っていたが、他の子供達は幼稚園に配給される玄米80キロの内40キロを自分達の分として受け取っていた。子供達は玄米40キロ(25キロ)で1年持ちこたえなければならない。多くてもこれくらいしか配給してくれない。だから配給だけでは生きていけない。農村では商売もできないので、結局収穫が終わった後、田んぼで盗みを働いたり個人的に農業をしなければならない。

-他の農場も同じような状況ですか?

-貧しい農場では秋の初期分配が米20キロ、トウモロコシ50キロにしかならないところが多い。そこに住む人達は十分に食べていないから、まともに働くことが出来ない。結局借金ばかりが増えて、その日暮らしをするはめになってしまう。

-(幹部や軍人が)あれこれ取って行ってしまうと言っていましたが、国家に供出しなければならない物が多いのですか?

-分組単位で国家の土地にジャガイモを植えるのだが、個人的にその種を用意しなければならない。種がない人は各村にいる金持ちのところに行って、トウモロコシとジャガイモを交換してジャガイモを植える。そうすると「ここは国の土地だから」と言って、3ヶ月分を持って行ってしまう。時期によっては豚肉や人民軍隊支援肉も供出しなければならない。1人当たり6キロ半を出さなければいけないので、2人分だと13キロだ。豚を育てている家はいいが、そうではない家はお金を出さなければいけない。子供が小学校(旧人民学校)に通っていたが、供出しなければいけない物が多かった。配給もなく給料も少ない先生達は、生徒からの供出物に頼って生活している。生活がきつくても子供を学校に送りたい。衛生事業があると言えば、洗顔石鹸や歯ブラシも供出しなければならないし、1年に1回はうさぎも出さなければいけない。学校で彫刻を作るから金を出せと言われてこともある。

-私有の畑はどれくらい耕しましたか?

-(女)まわりに山がない。あちこち川ばかりだ。30里(12キロ)歩いたところにやっと山がある。私有の畑には国家規定がある。横7メートル、幅2メートル、こんな風にだ。昔は国家規定が厳格に決まっていなかった。規定の範囲から外れた土地は没収されてしまう。ここの畑で生産されるものが私達の全てだ。(畑が)遠すぎるし泥棒の心配もあるので、そばに小さな小屋を建てて、夫が1人でそこに泊まったりもする。私の兄が除隊した後、豊かな暮らしがしたいといって空腹の中、木々を切り土地を開拓した。そうすると近所のあちこちから人々が押し寄せて来て土地を分けろと言ってきた。どうにかして耐えなければ生活をすることが出来ない。何年か働けば私達の土地とみなされる。境目がおかしいと思った時には紐や印をつけて私達の土地だということをはっきり示しておく。

-配給の量がまったく足りていないと思いますが、どうやって切り抜けたのですか?

-(男)人の口に蜘蛛の糸が張ることはない。(食べていけるかどうかは)自分の能力にかかっている。食べ物がないなら、借りるなり、人に乞うなり、盗みをするなり、何女「も歩いて商売をするなりしてでも生きなければいけない。私達も商売をして耐えられるところまで耐えてここまで来た。

-工場が止まった場合、そこで働いている人は何をするのですか?

-(男)工場が稼働していなくても出勤しなければならない。無断欠勤すると(労働)鍛錬隊に行かなければならなくなる。出勤のハンコを押してもらった後はやることがない。器量のある人は、どこかに行ってお金を稼いでくるが、工場はそれを寄付しろと言う。工場に残っている人にとっては笑える話だ。工場で働いて稼いだ金で生活しようという話なのに、工場に寄付するために他の仕事をするなんて。これが8.3だ。人民の生活に必要なものは自力で解決しろということだが、これが転じて工場に寄付することになった。

-電気は通っていますか?

-(男)私達が生産している電気の量は少ない。ほとんど水力発電所に依存しているが、まともに稼働しているのは夏くらいだ。火力発電所は石炭や原油や原材料を必要とするので、稼働させることが出来ない。夕暮れ時には無理にでも眠らなければいけない。人々が帰宅する時間帯は電気が沢山使われるので、まったく入ってこない。夏には水力発電所が稼働しているのでそれでも電気が通る方だ。私達が眠っている時間帯に2〜3時間程電気が通っているそうだ。昼にも少しの間電気が通る。電気が通る時間に電池を充電して必要な時に使うことが出来るのでそれでもまだいい方だ。もちろんTVなどを見ることは中々出来ない。

-幹部達はどんな暮らしをしていますか?

-幹部達は良い暮らしをしている。少しでも元手がある人は高利貸をしている。

-高利貸は処罰されないのですか?

-(女)借りる側にとっても必要なことなのに、やらない手はない。お金の貸し借りを法律で規制したりすることは出来ない。利子を高くしすぎると恨まれるだろうが、それ程ではない。ある程度高いのは仕方がない。

-(男)幹部達は全く違う。分組長が一番下級の幹部なのだが、彼らは分組の農業を指揮する。分組で農業をすると、その内の多くを上に差し出さなければならない。上に差し出す物を全て差し出した後、残った物のうちの多くは分組長の分だ。本来なら分組長が残りを所有することは出来ないことになっているが、人々の目を避けて自分の物にしている。それでこういう言葉が生まれた。党員は堂々と、行政員は行く宛もなく、安全員は安全に、保衛員はこっそりとご飯を食べる。私達も(幹部の不正を)分かってはいるが、不満は心の中で言うだけだ。

-(女)分組長は、真実を全て知っている私達にも食糧生産量を歪曲している。そうしなければ自分たちの分が増えないから。こういった不正がばれて問題になったこともある。

-心の中でなんと言うのですか?

-「大泥棒は主席壇の中にいる」と言う。

-影でこういう冗談を言うのですか?

-以前は口にすることが出来なかったが、最近は不満を口に出すこともある。そう聞いた。以前はそんなことをしたら大変なことになったものだが…最近は市場で安全員や保衛員とトラブルが起こると「おい、私にどうやって生活しろと?お前が食わせてくれるのか?」と口答えをしたりもする。不満を言うこともある。今すぐにでもお腹が空いて死にそうなのにどうしろと言うんだ。みんな飢えているから。

-北朝鮮では自殺する人が多いと聞きました。まわりに自殺した人はいますか?

-(女)舅が自殺した。元々平壌に住んでいたが、姑が夫を産んだ後1年間入院していた。その間に舅が他の女性と関係を持ってしまったようだ。果たしてそれが大きな問題だろうか?大きな問題ではないと思う。でもその時(1970年代)は金正日氏が後継者としてもてはやしていた時期だったこともあって、規律が厳しかった。そんな状況の中でその女性との問題に火が付いて、平壌から追放されてしまった。その後地方に来てからはそれなりに暮らしていたが、病気が再発してしまった。舅は平壌の地下鉄を建設している時に、トンネルが崩れて頭を打ってしまい、手術をした。(1990年代後半)苦難の行軍の時期に後遺症が出てきて、私達が看病した。しかし、食糧事情がよくなかったので、私達も生活に必死できちんと世話することが出来なかった。そうするうちに舅が鬱病にかかってしまい、私達が商売に出ている間に首をつってしまった。私達は常に忙しかった。それで守ることができなかった。