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6月25日は、朝鮮戦争勃発61周年である。すぐれた知略と決断で大韓民国を危機から救った名指揮官の功績は、歴史が評価するだろう。しかし、まともな訓練も受けれないまま、戦場に放りこまれ体で大韓民国を守ってた無名の青年たちも、我々は忘れてはならない。

22日、朝鮮戦争に参戦した一般兵をさがすために、韓国参戦有功者・城南支部を訪れた。

1952年10月。広々とした白馬高地に血だらけとなった中共軍の死体がいたる所に転がっていた。悲惨な戦闘によって、敵味方を問わず怪我のない人を探す事は難しかった。中共軍は、味方の死体を回収せずに、軍服を剥ぎ取る事だけに熱中していた。戦争の血なまぐさい記憶である。

パクさんは、1952年に21歳で軍に徴集された。4週間の新兵教育を終えた後、銃弾が降り注ぐ白馬高地戦闘に投入された。60余年近くも経ったことだが、あの日の光景は未だ彼の記憶の中に生々しく残っている。

「白馬高地は中共軍の死体だらけだった。中共軍は、韓国軍が中共軍に偽装するのを恐れ、中共軍の服を剥ぎとっていた。死体を回収しなかった。裸の状態で手足が無い血まみれの死体をみれば、普通は恐ろしいものだが、あの時は怖くなかった。それが戦争だ」

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「熾烈な戦闘の後、私は腰にまいた軍用ベルトに弾丸が打ち込まれているのを見て、ゾッとした。少しでも当たり所が悪かったら、死んでいただろう。左足の太ももが湿っているのでズボンを脱いでみると、血が溢れ出た。その時になって撃たれたと思った」と、当時の緊迫した状況を伝えた。

6師団7連隊の捜索中隊員だったムン・ヨンジュンさんは、春川奪還作戦で失った50人の戦友の話を聞かせてくれた。

その当時、武器といえばライフル銃と手榴弾しかなかったムンさんと仲間は、高地の敵陣塹壕を占領するために進撃に進撃を繰り返えしていた。 8合目まで登り高地占領を目前にした瞬間、どこからか銃弾が雨のように降ってきた。そして50人余りの隊員が坂を転げ落ちた。

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機関銃の嵐を生き残ったムンさんと仲間は、倒れた仲間を気にかける余裕すら無かった。

ムンさんは、「とても悲惨だったのは、ある同僚が頭を撃たれて血を流して倒れていたが、死ぬことができずにもがき苦しんでいた。掩蔽物の外は、機関銃の弾が飛び交っており、私にできることは何もなかった」と、辛い記憶を語ってくれた。

続いて「戦闘が終わって手を見ると、小指が無くなっていた。戦闘中に吹っ飛んだのであろう。小銃を両手で握り締めていたのだが、緊張していたので気付かなかったようだ」と述べた。

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冬の戦闘はさらに恐ろしかった。炊事兵が山の麓の川まで下ってご飯を作って帰ってきたが、味方はすでに進撃した後だった。炊事兵らが部隊員を見つけた時には、既にご飯が凍りついていた。部隊員らはこの凍ったご飯をそのまま食べる事になった。

米軍はこの姿を見て、「韓国軍人は食にうるさい軍人。我々はパンとコーヒーさえあれば戦闘に出向くが、彼らはご飯とスープが必要」と笑い話をしたという。

パクさんは「李承晩大統領の誕生日に国が兵士にプレゼントを送ったが、イカの缶詰だった。食べるものがない状況だったので、缶詰を貰うと急いで食べた。空っぽの胃の中に油分が入った為、一日中お腹を下して苦労した」とした。

この2人の参戦勇士は、最近の若者の緩んだ安保意識を見ると、過去のような悲劇的な戦争が繰り返されるのではと、とても心配に思うと口をそろえた。

ムンさんは「世界に分断国家で休戦国は、韓国だけだ。なぜ、韓国がこのようになったのかを勉強し考えた上で、親北、反米を叫ばなければならない。なぜそのような軽挙妄動をするのか…」と残念な気持を述べた。

「朝鮮戦争と南北分断について正確にしらない若者が多いようだ。左派勢力の主張をありのまま受け入れてはならないと思う」と呼びかけた。

パクさんは「親北議員の影響で大学生が左傾化したようだ。国会議員がそれを防がなければならないはずなのに、彼らを扇動しているではないか。これでは国の行く末がどうなるというのか。引き止めないので、親北勢力は自分が望む北へ行けばどうだろうか」と話した。

また、朝鮮戦争参戦勇士を「極右」「旧態依然とした保守」との視線に対し、「これに物を言える立場なのかは、分からない。我々が行った全ての事が全て正しいとは言えないが、この国を守ったという誇りは認めてくれなければするのではないか。朝鮮戦争の時に、苦労した方々という心だけ持ってくれたら良い」と付け加えた。