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 私の知る限り、PDグループは政治にはあまり行きませんでした。なぜなら階級意識が強かったからです。NLは社会主義者というよりは民族主義者なんです。戦術的には連合、統一戦線の性格が強い。多くの人々を包摂しなければならないので、大衆性がものすごく大事で、そのための訓練と経験もたくさん積んでいました。

ただしPD出身者は、韓国の労働組合のナショナルセンターである全国民主労働組合総連盟(民主労総)など、戦闘的な運動組織の中で重要な役割を果たしてもいる。文在寅政権の誕生を後押しした民主労総だが、政権との間で緊張を抱えることも少なくない。

カン そもそも民主主義に対するビジョンや、平等、公正、正義に対する自分の哲学のない集団が政権を取ったというわけですか?

 理念が消え去ったのです。「統一」とか「解放」とかいった理念を、政治圏に入りながら投げ捨てて、消え去った理念のかわりに自分たちの利益を図っているのです。「革命的義理論」で団結して、互いの利益を図り合う関係になったわけです。保守がよく、彼らを「主思(チュサ)派」(主体思想派)と呼ぶけれども、チュサ派は以前あった統進党(統合進歩党)、現在の民衆党に残っているぐらいでしょう。586政治エリートは少し違うんです。昔から議長様と呼ばれながら、花籠に乗せられることに慣れた人たちなんです。彼らが持っている大衆宣伝ノウハウ、大衆組織ノウハウ、これらを基盤にした選挙ノウハウに、保守は太刀打ちできません。

NLは、85~86年頃に組織化され、PDは概ね87年の6月抗争と大統領選挙を経て運動体の形を整えたとされる。ただ、正統的なマルクス・レーニン主義を掲げたPDは、実際には70年代の運動圏においてもその萌芽があったため、NLの方が後発グループとみなされる側面があった。それでも、組織力ではNKが群を抜いていた。

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「(後発である)にもかかわらず『NL』は、反米と統一を前面に押し出して韓国の青年たちの民族主義的な感受性を刺激することによって短期間で運動圏の多数を掌握した。特に、87年の6月抗争の時期に『直選制改憲』という大衆的なスローガンを掲げてデモを主導することによって、学生運動圏はもちろん、社会運動圏の上層部まで掌握し圧倒的な勢力に成長した。(中略)
既存のパンフレットは、マルクス・レーニン主義の粗野な用語で溢れかえり、まるでわざと難しく作ったかのように、自分たちの理論レベルを誇示しようとする傾向が目立った。しかし、多くの人々が評価するように『NL』は平易だった。米国が主敵であり、米国が退きさえすれば、朝鮮半島のすべての問題が解決するというように明瞭だった。意識的に難しい言葉を排除し、できるだけ易しく書こうと努力した」(金永煥、前掲書より)

「文在寅は作られた存在」

 私は586には功罪があって、特に廬武鉉政権のときには大きな役割をしたと見ています。学生運動は、自らのすべてを投げ打って、自らが信じる正義を叫ぶ行為じゃないですか。そういう彼らが政治を行い、政治圏に入るのは自然なことでしょう。そうした過程を経て政治圏に新しい人物が登場してこそ、世代交代が起きるわけですから。今の586もそのようにして大物政治家になりました。問題は彼らが急速に堕落した点にあります。