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ハコモノが大好きな北朝鮮の歴代指導者。記念碑的建築物と呼ばれる、派手な外観の豪華な建物を次から次へと建てている。そんな工事を、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の建設部隊と共に支えているのが、各地の工場、企業所、機関などから半ば強制的に徴用された人々からなるタダ働き素人集団の「突撃隊」だ。

デイリーNK取材班は、突撃隊の実態を探るため、北朝鮮と国境を接する中国遼寧省の丹東に飛び、突撃隊を飛び出して脱北したばかりののキム・チョルクさん(20歳、仮名)にインタビューを行った。

平安北道(ピョンアンブクト)出身で、かつては船乗りだったキムさんは、職を失い、丹東郊外の東港の沖合にある緋緞島(ピダンソム)で、突撃隊として働くようになったが、餓死者を出すほどの劣悪な環境に耐えかね、脱北を決意した。

国を支える大きな存在でありながら、外部にはその実態があまり知られていない突撃隊。今回のインタビューは、それを知るための手がかりとなるだろう。

―突撃隊の工事中の事故は?

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4月末から工事に投入されたが、5月中旬に人が亡くなった。栄養失調のせいだ。

栄養失調にかかった人は帰宅させられるのでは?

当時は作業が始まって間もないころで、栄養失調で死にそうになっても家に帰してもらえなかった。開始直後に帰宅する人が出れば、残った人々が動揺するからだ。

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死者は目撃した?

脱北するまでの間に7人が栄養失調で亡くなった。6月初めに隣の中隊のテントで火事が起きて、1人が亡くなった。火の手が上がったのに、逃げられずに亡くなった。

―亡くなった人への補償は?

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補償などない。栄養失調で亡くなった人の遺体は、家族が連れて帰った。テントの火事で亡くなった人は英雄の称号が授けられた。中隊長が上部に嘘の報告を上げて、英雄にしてあげた。テントが火事になったが、将軍様の写真を取りに戻るために、火の中に飛び込んで亡くなったというものだ。生前は1日3食の食事をまともにくれなかったのに、焼け死んで英雄に仕立て上げられたと中隊員は不満タラタラだ。

(編集部注:中隊長の虚偽報告は、事故発生の責任を取らされることから逃れるために、
エピソードをでっち上げるという、責任逃れのためと思われる。)

―6.3青年突撃隊に入ったきっかけは?

故郷は平安北道の◯◯郡だ。両親は昨年、船に乗って漁に出たまま行方不明になってしまった。春には祖母も亡くなった。世話になっていた基地長(船主)も亡くなり、漁に出られなくなった。天涯孤独の身になり、仕事も失ったので、4月に6.3青年突撃隊に志願した。突撃隊に入れば、メシは食わせてくれると聞いて。

空腹でタダ働きの日々

―突撃隊は全員志願した人?

違う。自分のように志願して入った人もいるが、ほとんどは、郡が職場がなくやることがない人を選んで送り込まれてきた。税金が払えない労働者やホームレス生活をしていて連行されてきた人もいた。

―突撃隊の任務は?

緋緞島の東側に1.8キロの堤防を作ることだ。

―人数は?

全部で6つの中隊があって、隊員は1000人ほどいる。中隊は出身地域ごとにまとめられ、自分は◯◯郡出身なので、◯◯中隊に入った。

―完成予定は?

10月10日の朝鮮労働党創立日までの完成が目標だが、可能なのかわからない。機械は1台もなく、すべて人力で行っている。

―給料は出る?

そんなものは出ない。ただし、食事と寝床は用意してくれる。最初の3日間は、ご飯の量が多かったが、それ以降はスプーンで3回すくえばなくなるほどまでに減らされた。おかずは、犬も食べないような代物だ。塩のスープもなく、漬物が出されるが、とても食べられたものではない。

―隊員の抗議は?

抗議したところで、返ってくるのは暴力だ。材木で殴られる。暴力は常習的に行われる。ぶつくさ言うなと殴られ、サボるなと殴られ、歯向かうなと殴られる。ともかく殴られてばかりだ。

2ヶ月で7人が死亡

―隊員は逃げない?

一度突撃隊に入れば、任務が終わるまで家に帰してもらえない。緋緞島の堤防ができるまでは帰してもらえない。脱出など無理だ。作業巡察隊がパトロールしているので、作業場と寝床を往復する以外にはどこにも行けない。島の人と一言も話す機会がない。これでは監獄と変わらない。

―隊員の日課は?

朝6時に起床、朝食後の6時50分までに全員集まって作業の指示を受けて、7時から12時まで午前の作業だ。昼食後に休憩を取って、午後は2時から6時まで働く。6時からは政治学習や教育を受けて、8時ごろからは中隊別に作業の総和(総括)をする。夕食にありつけるのは夜の9時になってからだ。食事が終われば、10時半には床につく。

空腹と強制労働に耐えかねて脱北

―脱北の経緯は?

7月11日の夜に同じ中隊の人と共に、盗んだ小舟に乗って緋緞島から鴨緑江を渡った。島には巡察隊と海岸警備隊がいるが、運良くごまかせた。子どものころから船に乗っていたので、水の流れを読むのは得意だ。

(編集部注:緋緞島から中国の東港までは、最も川幅が狭いところで1キロ未満)

中国ではどうやって暮らした?

中国に着いてからは、以前漁をしていたころにカニの取り引きをしていた中国人の助けで、貝の殻剥きの仕事をした。しかし、数日もすると彼からしきりに「北朝鮮に戻れ」と言われたので、10元を受け取って彼の家を出た。昼には人の多い通りを、夜には明るい通りを選んで、丹東市内にたどり着いた。

(編集部注:東港から丹東市内中心部までは、およそ40キロ)

金持ちは船の所有が可能

突撃隊に入る前の仕事は?

人民学校(小学校)を出て、中学校には行かず、すぐに船乗りになった。最初は小さな船、その次は80馬力の船、その次は120馬力の商船に乗った。よく面倒を見てくれた基地長は、私が船の仕事を始めてから最後までずっと一緒だった。

子どもでも船員になれる?

小さな船なら学力や年齢は関係ないが、80馬力の船に乗るなら正式な船員として登録しなければならないので、中学校の卒業証書が必要だった。私は中学に入ったが、実際は登校しておらず、卒業証書がなかった。基地長が学校にいくらか払って卒業証書を作ってもらった。それから(正式な船員として)船に乗るようになったが、年齢や学力は関係ない。カネさえあればすべて大丈夫だ。

基地長の船の所属は?

文書の上では(水産事業所の)4.25基地所属になっているが、事実上個人所有の船だ。基地と船の出港を管轄する哨所さえ抱き込めば、個人でもいくらでも船を持てて、漁に出られる。正確にはわからないが、半分以上がそんな船だ。基地を通さずに哨所に虚偽の登録だけして漁に出る船もあるが、私が乗っていたのもそんな船だ。それで、船主を基地長と呼んでいた。

船に乗ればおまんまの食いっぱぐれはない

船上での仕事は?

私がいたのは○○郡で、主にワタリガニ漁をしていた。中国でよく売れて、後には120馬力の商船も買えた。食えないから船の仕事を始めたが、仕事は楽しかった。だから辛くても耐えられた。給料は、小さな船に乗っていたころはコメで受け取っていた。

ワタリガニが豊漁で、中国でよく売れれば、もらえるコメの量が増えた。あまり売れなければ、コメの量が減らされた。それでも、食べるのに困ることはなかった。寝床と食事は基地で出してもらえるから。80馬力の船に乗るようになると、コメ以外にもおかずがもらえるようになった。大豆油、砂糖、お菓子も出た。

大きな船に乗っていたころの給料は?

120馬力の商船に乗っていたころは、コメやおかずではなく現金で給料を受け取っていた。1ヶ月に3000北朝鮮ウォンだ。(追加で)コメやおかずをもらえることもあったが、市場で売り払った。それまで含めると月6000北朝鮮ウォンになった。あのころはよかった。友達の家に遊びに行くときに、お菓子や砂糖を手土産で持っていくことができ、家にもコメを送ってやれた。

(編集者注:2003年10月のコメ1キロの価格は130〜150北朝鮮ウォン)

今でも北朝鮮で餓死する人はいるのか?

当たり前だ。栄養失調で死ぬ人もかなりいる。突撃隊に入る前、故郷でブラブラしていたころ、町内の誰それが栄養失調で死んだという話をしょっちゅう聞いた。

北朝鮮での暮らしはよくなった?

最近は苦難の行軍のころよりもっと苦しい。(皆が貧しかった苦難の行軍のころとは異なり)金持ちはあのころよりはるかにいい暮らしをしているが、貧乏人はあのころよりもっと苦しい。理由はわからない。去年よりもっと苦しい。

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