ドイツ人歴史学者のベルンド・セパー(Bernd Schaefer)博士は、ドイツの崩壊から北朝鮮が学ぶべき教訓として、外部情報の流入を挙げた。
ハンス・ザイデル財団の招請で訪韓した同博士は、25日のデイリーNKとのインタビューで「どのような情報が北朝鮮に流れ込むのかを、用意周到に読まなければならない」と助言した。
米国の国際政治学会であるウィルソンZンター(Woodrow Wilson Center)冷戦期歴史プロジェクトチーム(Cold War International History Project)の常任研究員で、過去、東ドイツの情報機関で恐怖政治の代名詞だったシュタージ(Stasi)の証拠書類を通じ、冷戦時代の東ドイツと旧東欧圏の歴史を研究している。
同博士は単なる情報の流入だけでは大規模なデモにつながることは難しく、それよりも「我々は他国に比べ数十年遅れており、我々の政府が物語っているのは真実ではなく、我々は経済的に劣っており、直ぐにでも滅ぶ」という国民的な認識が前提として必要だと説明した。
「その次のに必要なものは、スパーク」と強調し、東ドイツのスパークは、ハンガリーとの国境が開かれたことと述べた。1989年にハンガリーとの国境が開放されると、数千人にのぼるドイツ人がハンガリーを介して西ドイツに脱出し始めた。これにより、東ドイツ政府の統制力が弱体化し、ベルリンの壁の崩壊につながった。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面また、東ドイツと北朝鮮との短期間ではあるが、緊密な同盟関係が形成された経緯と、北朝鮮に与えた影響についても説明した。
北朝鮮の外交関係は1980年代半には中国とソ連よりに傾いていたので、相対的に東ドイツとの関係は疎遠だった。しかし、70年代末に中国で改革が行われ、80年代半ばにはソ連のペレストロイカが原因で、外交関係は大幅に変わった。
「北朝鮮は中国の改革をかなり懐疑的・批判的であり、また、改革の影響を心配し、かなりイライラしていた。これは反改革的な東ベルリンと平壌の両政権の同盟関係の出発点となった」
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面その例として、当時、北朝鮮はモスクワと中国の留学生を東ドイツ留学に送った。 「北朝鮮は急に多くの学生を東ドイツに送り出した。1989年には1500人もの北朝鮮人学生が東ドイツにいた」
また、ハンガリーとポーランドが改革的な政策を開始した後、北は東独に自国の留学生が近隣の共産主義国家への訪問を禁止する様に要請した資料があるという。同博士は「東ドイツとしては、非常に奇妙な要求」だったとし、外部勢力に対する北朝鮮当局の被害妄想的な恐怖と述べた。
他の例は、シュタージと北朝鮮の国家安全保衛部との緊密な協力関係を説明した。シュタージが北朝鮮との協力を行った重要な一つの事件は、1989年の平壌世界青年祭典である。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面「世界177カ国から2万5000人以上の学生が一度に平壌に訪れた。北朝鮮当局は保安業務で東ドイツに様々な支援を要請した。北朝鮮が望んでいたのは、監視技術だった。パスポート読み取り技術、20カ所以上のチェックポイントの設置、祝典参加者の名簿のチェックなど、様々な要求があった」
また「東ドイツの国民を監視する機能性は、世界の他の共産圏国家よりも優れていた。その誰も北朝鮮が東ドイツ程の完璧なレベルの監視体制を持つとは、想像することができなかった」と付け加えた。
この他にも、北朝鮮当局の外部の軍事攻撃による過剰な恐怖心によって、シュタージに協力を要請したと紹介した。「アイルランド共和国軍(IRA)が北朝鮮国内に潜入し、攻撃を行うと北が言っていた。シュタージは、IRAはアイルランドだけで活動しています。彼らがそのような事をする事はありませんとだけ回答た」