5月に北朝鮮はサムス発電所の竣工式を行った。北朝鮮の朝鮮中央テレビは’先軍時代の記念碑的創造物で、立派に立ち上がったサムス発電所’という題で集中的に宣伝した。
サムス発電所の建設は1970年の朝鮮労働党第5回大会の時から議論があったが、建設する場所の地質の国「のため、実現しなかった。サムス発電所の建設論争が突然起こったのは、2000年初めの組職指導部と宣伝扇動部の権力をめぐる暗闘のためだった。
サムス発電所の建設論争は、2000年代初頭から半ばにかけて、宣伝扇動部を主導したチョン・ハチョル宣伝扇動部担当書記と、チェ・チュンファン中央委第1副部長の急成長と没落の過程をよく見せてくれる。チョン・ハチョルはその後、政治的粛清説が語られてきたが、韓国政府はこの事実を公式に確認することができなかった。チョン・ハチョルは韓国政府が発行する各種の北朝鮮人名集に相変らず宣伝扇動書記として紹介されている。
チョン・ハチョルは2005年10月に党創立60周年中央報告大会の主席団に参加した後、公開の場に現れず、もちろん4月の人民軍創立75周年の閲兵式の主席団にもいなかった。
1999年6月18日に’苦難の行軍’の反転を夢見る金正日総書記が、両江道一帯を視察し、三池淵の開発の指示を下して、その課業を宣伝扇動部に任せた。そして2000年12月から強制的に’党思想宣伝突撃隊’を募集して、2001年4月15日に、正式に発足式を行った。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面建設を主導した宣伝扇動部は、6.18突撃隊を通じて、20年間組職指導部に奪われた中央党内の権力告}を変えるチャンスにしようと考えた。6.18突撃隊を主導したチェ・チュンファンは金正日総書記の三池淵1号道路建設を終えて、金正日総書記の信任を得るために、新しい建設を思案した。サムス発電所の建設だ。
宣伝扇動部と組職指導部の競合関係
1970年代に金正日総書記が文化芸術部門事業を引き受け、中央党の内部で宣伝扇動部は最も力が強い部署として認められてきた。だが、1980年に党の第6回大会で、金正日総書記が党中央委員会組職書記となり、権力告}は宣伝扇動部から組職指導部に移った。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面1990年代半ばの苦難の行軍の時期に、北朝鮮政府は宣伝扇動部を通じて、当時の経済難は帝国主義者と内外の敵の反共和国孤立抹殺策動のためであり、思いがけない自然災害で、’一時的な難関’に直面していると国民を汲「た。こうした宣伝は宣伝扇動部の第1副部長チェ・チュンファンと、2000年に宣伝煽動部長に昇進した中央放送委員長のチョン・ハチョルを中心に行われた。
この時期をきっかけに、この2人は金正日総書記に最も忠実な側近として浮上するようになった。チェ・チュンファンが1999年に金正日総書記の視察に随行した回数だけでも40回以上になる。最側近の秘密パーティーにもいつも参加していた。
一方、宣伝扇動部がサムス発電所の建設問題を提起すると、組職指導部が地質の国「のために、サムス発電所の建設は不可能だということを立証しようとした。宣伝扇動部やはり、自分たちの主張を貫徹するために、地盤の調査を実施して、フランス式のダム(石と土で押し堅めたダム)で費用を減らすことができると主張した。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面住民を汲ォ、内部の結束を堅める効果を探っていた金正日総書記は、建設を強行するという宣伝部側についた。2004年2月に、恵山市チャンアン里のウンチョン江とホチョン江の合流地点に、’党思想宣伝突撃隊’3万人が動員され、着工式は5月に行われた。
だが、じっと座ったまま権力を譲る組職指導部ではなかった。更に当時、組職指導部の第1副部長には金正日総書記の妹弟である張成沢が君臨していた。
2004年3月の、チェ・チュンファンの娘と朝鮮体育指導委員会の某幹部の息子の結婚式が口火になった。中央党をはじめとし、道の党幹部が宣伝部で点数を稼ごうと、この結婚式に競って集まった。1人あたりおよそ1000ドルの祝儀を送った。権力者の結婚式では前例があることだった。だが、宣伝扇動部を目の中の刺のように思っていた組職指導部がこれを問題視した。
組職指導部はこの結婚式はずいぶん豪華な結婚式で、チェ・チュンファンが勢力を固めようと企んでいると、金正日総書記に報告し、結婚式の参加者を全て召還した。組職部が本格的に事件の検討を始めて、1000ドル以上贈った幹部31人を解雇し、農村に追いやった。
2004年5月に、組職指導部の勢いをくじいて、宣伝扇動部の権力の基盤を築いたチェ・チュンファンは、党の内部の秩序に違反し、金正日総書記の側近を糾合して、勢力を形成した行為を最大の罪目としてあげられ失職した。
宣伝扇動部の墜落はこれに止まらなかった。組職指導部は目の中の刺のような存在だったチョン・ハチョル書記を2005年に政治事件を起こしたとして、政治犯収容所に収監した。彼は平安南道ブクチャン郡のドクチャン管理所に収監されたという。ドクチャン管理所は高位幹部が主に収容される政治犯収容所で、一度入ったら出るのが困難な所だ。
この事件で、中央党の内部で最高権力を夢見て、その基盤にしてきた’党思想宣伝突撃隊’の実権は、宣伝扇動部から組職指導部に完全に移った。