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「首領様はいつも私たちとともにおられる」というスローガンは、北朝鮮住民ならば皆が知っている最も代表的な体制宣伝用のスローガンだ。このスローガンは、北朝鮮の各道、市、郡、里ごとに設置されている「太陽像」と「永生塔」に大きく刻まれている。不死のような存在だった金日成が亡くなるとすぐに、息子である金正日は3年脱喪に合わせ、党中央委員会決定書を採択、4月15日(金日成の誕生日)を「太陽節」と命名し、独自の名節を作り出した。

「太陽節」は一言で言うと、金日成を封建王朝の太祖のように敬うという意味。実際に北朝鮮では、「金日成祖先」、「金日成民族」などの用語を使い、金日成をあたかも檀君のように神格化している。

また、金日成が生まれた1912年を期して「主体年号」作り、以後不便極まりないこの年号を使っている。この時から毎年4月15日、北朝鮮人民は朝から老若男女関係なく皆が花輪や花束を持って「太陽像」、「永生塔」への参拝が義務付けられる苦痛の日々が始まった。筆者もやはり脱北する前までは毎年4月15日の朝、企業所で組織された隊列の中に混じり、「太陽像」で明るく笑っている金日成像まで、花束を持って訪問した。

韓国に入国し、いつのまにか7年の歳月が流れた。しかし4月になると未だに自然と「太陽節」行事の事がはっきりと思い出されるのは、うんざりした長い北朝鮮生活の中での洗脳からであろうか。毎年4月初めになると、金日成の誕生日の行事のために北朝鮮の至るところで忙しくなる。金日成の誕生日を控え、各種行事を華やかに盛大に行い、金日成の永生を称賛しなければならないのだ。

北朝鮮最高の名節は金日成の誕生日

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金日成の誕生日行事が盛大に行う反面、北朝鮮住民たちは行事準備のため、革命戦跡地と史跡地、銅像、研究室などで偶像化施設の保守、清掃に苦しめられる。また、記念日による生産増大のための各種戦闘により、人民の苦痛は一層ひどくなる。しかしこの対価として与えられるものは何もない。1980年代までは、4.15名節供給名目として酒、タバコ、若干の食料品、また子供たちにはアメ、菓子など特別な贈り物が与えられたが、最近では深刻な経済難でまともに供給できていない状況だ。

ところで、北朝鮮ではいつから4月15日が最大の民族的名節に化けてしまったのか。1962年に4.15を臨時に公休日に制定した北朝鮮は、1968年から正式に名節公休日として制定。続いて、金正日が後継者として登場し始めた1972年、金日成が還暦を迎えてからは4.15行事を本格化し、偶像化作業の一環に人民を酷使し始めた。金正日は1974年2月、公式に党中央委員会の全員会議で公式的な後継者と承認された後、すぐに中央人民委員会の政令を通じて自分の父、金日成の誕生日4月15日を民族最大の名節に制定。以後、北朝鮮人民は金日成の誕生日のための各種記念行事に動員され、その度に苦しめられている。金日成の死後17年が過ぎたが、その熱気が冷めることはない。

金正日が再び自分の息子金正恩に独裁の刃を譲り渡そうと、すでに死亡した金日成の顔姿や歩き方までまねさせている。まだ三盾ノもならない若造だが、党中央軍事委員会第1部委員長地位まで登りつめた金正恩が、父である金正日に付いて回る姿を見ればあきれるしかない。顔の印象から髪型まで、若かった時の金日成にそっくりそのまま酷似している。もしかすると人民に対する行動まで、同様にまねるのだろうか。彼がテレビに出てくる度に、死んだ金日成が生き返った錯覚にまで陥るほどだ。

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4月15日を考えると、金日成が死亡した当時が自然と思い浮かぶ。11時30分頃、まもなく重大放送があるというアナウンサーの声が2、3回あり、定刻の12時の放送で金日成が死亡したという訃告発浮ェ流れた。瞬間、途方に暮れた。

当時、筆者だけでなく全体の北朝鮮人民が、当局の宣伝をそのまま信じていた。当局は、世界超大国である米国大統領、カーターも金日成の前にひざまずき、まもなく金泳三大統領も誤りを謝罪しにくると宣伝。誰もが朝鮮人民が希望する祖国統一が目前に迫っていると確信したことは事実だ。

その当時は、世の中がみな崩れ落ちるかように錯覚するほどであった。それほど天のように大きく信じた私たちの首領様が死ぬとは信じられなかった。いや信じようとしなかった。なぜだろうかか。金日成は天から生まれた神のような存在なので、死ぬということ、また死んではならない人物だと奥深くまで洗脳されていたためだ。人民は泣き叫び、大騷ぎが起こり、いつの間にか万寿台の銅像には人で溢れ返した。だが、何日もしないうちに金日成が死んだ後遺症で人々は疲弊し始める。党からの通達が下り哀悼期間に何も出来なかった。多くの人の祝福を受けて幸福の第一歩を踏むはずだった若者たちの結婚式は無期限の延期になり、還暦や進甲祝いなどは考えられなかった。当時は親しい友人同士、久しぶりに会っても笑うことさえもできなかった。

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金正日が死亡すればどうなるのだろうか

私がよく知る友人は7月21日、自分の息子の誕生日を家の人々どうし集まって静かに祝ったが、結局保安員に見つかり、深い山奥まで追放された。このように金日成に対する「哀悼不誠実」のレッテルが張られて、平壌から地方に追放された世代が何と3千世代を越えた。どれくらい多くの人々が苦しんだのだろうか。ただ、平壌でなく地方だからといって決して気楽でいられるわけではなかった。全国的に哀悼期間にどんな些細な事でも問題になれば、無条件に批判書を書かされ、思想批判として厳しく処罰された。

当時日本から朝鮮総連短期訪問団として訪れていた姉を見送るために、元山に二日間滞在したという理由で友人は罷免され、革命化(自己反省、批判を受けること)を強制された。朝鮮総連に家族がいたために、多めにみてもらえた。価値のない労働者とその家族は、首領様を失った悲しみを表現しなかったという理由で政治犯収容所、労働教化所へと強制連行された。

金日成は自分の生前に「人民の幸福のために全てのものをみな捧げる」という約束を皮肉にも守り、死後までも人民に自分の辛さを抱かせる結果となった。今でも無念さや心身の疲労で疲れ果てた当時が今更のように浮び上がる。金正日が、もうまもなく死ぬはずであるが、彼の死後またどんな状況になるのか心配だ。金正日の下で日々の苦痛に耐え、あらゆる試練を経た北朝鮮人民が再び、94年の夏のように偉大なる指導者を失うという悲しみに陥るのだろうか。金日成が生まれた4月、千年万年生きるとされた金日成の突然死と、まもなく近づく金正日の死亡を重ね合わせて考えると、今、あの当時を振り返ることになった。