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今年は北朝鮮が2002年の7・1経済管理改善措置(7.1措置)を断行してから5年目になる。

7.1措置の後、北朝鮮内部には大きな変化が起きた。特に、総合市場として普及した農民市場は北朝鮮の住民の経済活動の基本的な基盤となった。

農民市場が総合市場として広まったのは、北朝鮮政府の経済改善意志よりは、北朝鮮の住民が生存のために市場を通じた経済活動をより活発に行うようになったからだ。北朝鮮政府は我々式方法の社会主義を公式的に固守しているが、市場の活性化を受け入れるしかない状況だ。

北朝鮮の農民市場では、一部の農産物と野菜類以外には、一切の商品を売買することができなかったが、1980年代以降、一般の住民に対する正常な生活必需品の供給がなくなってから、市場に国営商店にはない商品が出回り始めた。

このように、市場で商店にない商品が国家価格の数倍で売られ始めると、北朝鮮政府はこれを‘闇取引’と規定して、厳しく取り締まり始めた。

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地下経済(ヤミ)は80年代中盤から始まって、 1990年代中盤に入り、本格的に実体を現わした。今は北朝鮮の住民たちの経済生活が市場を離れて維持できない程になった。

何故ならば、国家からの供給が全くなく、食糧の供給さえ途絶えた現実で、暮らす全ての生活必需品を市場に来なくては得られないからだ。 また、生活必需品を新調するのに必要なお金を儲けようとすると、やはり商売をしなければならないからだ。

1990年代の大量餓死が市場を形成

しかし、ヤミ市のおかげで生き長らえつつも、北朝鮮の人々はヤミ市が資本主義市場経済と異なるものではないという事実をまだ認識することができていない。彼らはただ「商売をして生き抜く」という認識しか持っていない。

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1980年代以前、社会主義供給制度が機能していた時代にも、供給以上のものを所有しようと思った人々がいた。これを北朝鮮では「個人利己主義者」と呼んだ。このような人々は政府が商売を「非社会主義的現象」と強力に締め付けを行う中でも、お金を儲けるために努力した。

当時は商売をして、法的問題が起これば厳しい制裁を受け、全社会で「非社会主義的現象を根絶するための闘争」が起こった。

しかし、1990年代に入り、経済生活がますます困難になり、特に大飢饉の「苦難の行軍」が始まると、生存のための商売は、阻むことができないほど、激しくなった。法的にいくら統制しても、人々は生死の分かれ目で、市場に頼った。商売をしてわずかに儲けてかろうじて生きて行く人々の隊列が広がり始めた。

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苦難の行軍は結局、人々に市場経済の流れに乗らなくては生き残れないということを肌を持って感じさせ、お金中心の価値観と、食べて生きて行くためにはどんな手段と方法も使わなければならないという生存意志が強まった。

羅津・先鋒で走る「競走選手」たち

北朝鮮の住民が商売をする人々を見る目は、時代ごとに違う。1990年代までは、商人たちを個人利己主義者とみなし、社会主義で生きる資格がない人々であると批判した。

しかし、苦難の行軍を経て、商売をしても食べて生き残る人が賢明で利口な人と評価され、商売でお金を儲ける人々を羨んで飢え死にする人々は「頭の良くない人」という認識に変わった。

結局、地下経済の拡大は、数百万人が飢え死にする現実を直接経験してから、北朝鮮の人々自らが生存のための非常口として選択したことから始まったのだ。

暗市場が拡大すると、政府の統制が一層強化された。しかし、取り締まりに当たる側の保安員(警察官)さえ生活が困難になると、権力者の不正行為がますます増えた。また、彼らの家族、親戚まで商売して暮らすようになると、ヤミ市の統制は事実上不可能になった。向かいの家のおじさん、隣の家の息子が飢え死にし、栄養失調にかかった子を生かすための住民の生存闘争は、誰も阻むことができなかったのだ。

1991年12月に自由経済貿易特区に指定された羅津、先鋒の地域は、当初は公務以外には誰も出入りすることができないように、厳格に鉄条網を張って統制した。

しかし、深刻な経済の現実の中で、お金さえあれば必要な生活必需品を買うことができる羅津地域で、人々は鉄条網を越えて出入りするようになった。お金をたくさん持っている人々は数人ずつ一組になって、機関、企業所の貸物自動車を貸与して、羅津や先鋒に入って行って、お金を払って物品を運び、市場で売った。

7〜8割の国民にとって市場は不可欠の存在に

1990年代から北朝鮮の国家経済は生産稼動の8割以上がストップした。しかし、羅津、先鋒から来る中国商品と、中国の朝鮮族が持って来た物品が、市場で大々的に売買された。

すると北朝鮮政府は、国家の供給が実現していない現実を認めて、2002年に7.1措置を公表した。以後農産物だけ売買することができる農民市場でも、生活必需品を含めたほとんどすべての商品に対する販売を許容して、農民市場を ‘総合市場’と名前を変えるようにした。

これと共に、労動能力を喪失した人々や軽労動部門に携わる男たちに限って、市場で商売することを承諾した。

今、北朝鮮の総合市場は7〜8割の住民たちの生活にとって、なくてはならない生存の場となった。

結局、暗市場の芽は1980年代の初めから個別に出始め、1990年代中盤の苦難の行軍で決定的に、生存のための基盤に変わったのである。

韓国では太陽政策のおかげで、北朝鮮で市場経済が活性化したと主張する人々がいるが、過去の北朝鮮の現実を見れば、全くそうではないということが明確である。生存のための人々の身震いから始まって、7.1措置を通じて農民市場から総合市場に変化したのだ。

言わば、飢え死にした300万の北朝鮮の住民の犠牲の上に、住民自らの自己救済努力によって、市場が形成されてきたのである。