盧武鉉大統領が今日4日、平壌郊外の南浦(ナムポ)にある西海閘門を訪問した。.

西海閘門は北朝鮮、特に金正日総書記にとって特別な意味がある場所だ。西海閘門建設の発起人及び監督、工事責任者が事実上金正日氏であり、またその後の北朝鮮の経済難と密接な関係があるからだ。

西海閘門の建設工事は北朝鮮経済に致命的な打撃を与え、最後の資源まで失うなど、その10年後に起きることになる苦難の行軍の発端になった。

特に、工事期間中、 予想外に発生した1984年の韓国の水害で、大規模な戦争非常物資まで使い果たし、その後の北朝鮮の住民たちの貧しい生活をもたらす決定的な要因になった。

北朝鮮を90年代半ばに襲った経済難と数百万人もの大量餓死が、ある日突然やって来たのではなく、金正日総書記の政策が積もり積もった結果であることを見せてくれるはっきりとした証拠だ。

ある日本人建設技術者の推算によると、北朝鮮が西海閘門建設に注いだ建設費は、60億ドルにのぼる。これはあわせて40億ドルがかかったと公式発表した北朝鮮の計算よりも20億ドルも多い金額だ。

北朝鮮が西海閘門を建設した目的は、27億トンの貯水量を持つ人工湖を造り、南浦港の接岸能力を2万トンから5万トン水準にするなど、大同江の洪水の調節と農耕地の確保、港湾開発というものだった。

だが当時、北朝鮮の住民の間では、西海のペンニョン島から直接大同江を通じて侵透する韓国のスパイ(特殊部隊)らを遮断して、金日成氏と金正日氏がいる平壌の治安を守るために建設したという説が広まった。

満ち潮と引き潮の影響を直接受ける大同江を海から遮断しようとする北朝鮮政府の意図もあったというのだ。実際に、韓国に侵透した北朝鮮の連絡所要員(スパイ)たちは、満ち潮と引き潮だけうまく利用すれば、容易に漢江とソウルに侵透することができたと言う。

西海閘門は1981年に工事を始めて、5年後の1986年に完成した。北朝鮮は当初、3年以内に完成する目標を立て、1個軍団規模の軍兵力と、各地から動員された数万人の労働者を投入して工事を進めた。

だが、最初から北朝鮮が工事期限を3年と定めたわけではない。初期の北朝鮮の設計者や関係者は、西海閘門の建設の期間は20年以上かかると見込んだ。これは低い北朝鮮の土木工事技術と、膨大な工事の規模を勘案したものである。

また、20里以上にわたって海水を阻まなければならないうえ、工事現場の作業地域の流れが秒速11mと早く、水深も最高30mと深くて、作業の条件が極めて悪かったことも一因であった。

しかし金正日氏は当時、70歳近い金日成の年齢を考えて「首領様が生きてらっしゃるうちに完成を見られない工事は意味がない」と一蹴して、「他の人たちが10年、20年かけて行う工事は、我々は3年、5年以内にできる」と工事の短縮を指示した。

そして、大規模な人民軍の建設部隊が投入され、幾多の人命事故が起きる無謀な工事を推進した。北朝鮮は溶接や危険な作業への、軍人たちの自発的な参加を促すために、英雄称号を与えたりした。工事が終わった後は、北朝鮮の英雄が大勢現れた。

危険な作業に参加した軍人たちに、英雄称号や勲章を与え、利用したのだ。西海閘門の工事に関与した脱北者によれば、工事の期間中、1日平均少なくとも2〜3人から7人が亡くなったという。死者を全て合わせれば、数千人に達するという。

西海閘門は北朝鮮で大型の人命被害が発生した代表的な工事の一つにあげられる。

金日成氏と金正日氏も、直接建設現場を訪れ、軍人たちと建設者たちを慰労し、一緒に記念写真を撮るなど、西海閘門建設に、人民の参加を強要した。また、各地の工場と社会団体も定期的に支援物資(パンや肉類などの食料品)を持って、西海閘門の建設現場を訪れるように促した。

特に、お腹がすいている軍人のために、小麦粉で作った枕パンを沢山支援した。西海閘門の建設工事に動員された北朝鮮の軍人たちが、西海閘門はパンで作られたと言うほどだった。

北朝鮮当局はあらゆる無謀な努力にもかかわらず、西海閘門の完工時期を2度(1985年4月15日、1985年10月10日)も延期し、1986年6月24日に完成した。

西海閘門は現在北朝鮮で、‘労働党時代の大記念碑’として宣伝され、住民と外国人観光客たちの主な観光コースとして活用されている。