北朝鮮の金正恩党委員長の父・金正日総書記は、ハデな女性遍歴で知られていた。彼の身近にいた女性としては、正妻の金英淑(キム・ヨンスク)、金正男の母の成恵琳(ソン・ヘリム)、金正恩の母の高ヨンヒ(コ・ヨンヒ)、晩年まで秘書として務めた金オクが知られているが、それ以外にも、絶世の美女と言われた禹仁姫(ウ・イニ)ら多数の女性と関係を持ったと言われている。
彼女らの運命は様々だ。成恵琳と禹仁姫は女優、高ヨンヒは舞踊家と、いずれも似た経歴を持っているが、末路は残酷なまでに明暗が分かれた。息子が最高指導者の地位を継承した高ヨンヒは「国母」となったが、成恵琳は金正日から見捨てられたも同然となり、ロシアで客死した。
禹仁姫に至っては口封じのため、機関銃でズタズタにされて処刑された。
(参考記事:機関銃でズタズタに…金正日氏に「口封じ」で殺された美人女優の悲劇)ほかにも、北朝鮮には悲惨な末路を辿った女性芸術家が少なくない。たとえば粛清された張成沢(チャン・ソンテク)元朝鮮労働党行政部長の愛人で、やはり銀幕のスターだったキム・ヘギョンもそうだ。
(参考記事:【写真】女優 キム・ヘギョン――その非業の生涯)だが、金正日の「もうひとりの女」と言われるパク・エラのケースは、少し違っている。パク・エラは舞踊家で人民俳優の称号を持ち、画家で人民芸術家の称号を持つキム・ジョンジュンの妻だ。また、1974年に制作された映画「金姫と銀姫の運命」のモデルとも言われる。
(参考記事:【写真】パク・エラ…金正日の「もうひとりの女」の生涯)人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面
韓国のニュースサイト、リバティ・コリア・ポスト(LKP)によれば、彼女は1947年4月11日、ソウル市の麻浦(マポ)区で生まれた。麻浦と言えば今でこそソウル市内の中心部に位置するが、当時は町はずれのスラムだった。母親は著名な芸術家だった。3歳の頃、朝鮮戦争が勃発した。母子は戦火のソウルを逃れ、軍事境界線にほど近い山奥の村に住む親類の元に身を寄せた。1953年7月に停戦協定が結ばれたころ、母子の暮らす家は北朝鮮領になり、自動的に北朝鮮の公民となった。
北朝鮮において、韓国出身者は「成分(身分)が悪い」とされ、進学や出世などにおいて様々な制約を受ける。しかし、その類まれなる才能が身分制度の壁を越えるのに役立ったのだろう。
小学校の時から舞踊で頭角を現し、成人してからは北朝鮮の代表的な革命歌劇「ピバダ」(血の海)や「花を売る乙女」でヒロインを演じた。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面そして、パク・エラは運命的な出会いをする。金日成総合大学を卒業し、党中央委員会の宣伝扇動部に配置され、芸術事業の指導に当たってい後の最高指導者、金正日に見初められたのだ。ステージ上で舞う彼女を見た金正日は側近に「心臓が止まるかと思った」と言ったと伝えられている。
その後、金正日は夜な夜なパク・エラを呼び出しては食事を共にし、関係を築いていったという。やがて彼女は、金正日の特別な配慮で入党が認められた。「成分が悪い」だけの人々には考えられないほどの大出世だった。
その後も金正日は個別指導と称して、パク・エラを自らの執務室や別荘に呼び出したりしていた。慈江道(チャガンド)の江界(カンゲ)や淵豊(ヨンプン)にある招待所にも2人で入り浸っていた。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面このときすでに、金正日には内縁の妻である成恵琳がいたが、幹部らの間では「金正日は成恵琳を捨てて、パク・エラと同棲するだろう」と囁かれていた。公式の場に立つことはなくても、事実上のファーストレディの座はもはや彼女のものかと思われた。ところが、それは彼女自身の痛恨のミスで水の泡と化してしまった。後輩の高ヨンヒを金正日に紹介してしまったのだ。
パク・エラより6歳も年下で優れた舞踊家だった高ヨンヒに、金正日は心を奪われてしまった。やがて金正日は様々な口実を並べ、パク・エラと距離を置くようになった。
それでも、パク・エラは1987年に人民俳優の称号を授与され、万寿台芸術団から朝鮮人民軍協奏団に移籍した。男女の関係は終わっても、金正日はパク・エラを排除しようとはせず、優れた芸術家として遇し続けたということだ。
(参考記事:金正恩氏「美貌の妻」の「元カレ写真」で殺された北朝鮮の芸術家たち)高英起(コウ・ヨンギ)
1966年、大阪生まれの在日コリアン2世。北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。北朝鮮問題を中心にフリージャーナリストとして週刊誌などで取材活動を続けながら、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に 『脱北者が明かす北朝鮮』 、 『北朝鮮ポップスの世界』 (共著) 、 『金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』 、 『コチェビよ、脱北の河を渡れ ―中朝国境滞在記―』 など。