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北朝鮮にパク・エラという女性がいる。舞踊家で人民俳優の称号を持ち、画家で人民芸術家の称号を持つキム・ジョンジュンの妻だ。また、1974年に制作された映画「金姫と銀姫の運命」のモデルとも言われる。

一方で、彼女にはこのような話がある。北朝鮮の最高指導者だった金正日と恋愛関係にあったというものだ。

(参考記事:【写真】パク・エラ…金正日の「もうひとりの女」

金正日の身近にいた女性としては、正妻の金英淑(キム・ヨンスク)、長男・金正男の母の成恵琳(ソン・ヘリム)、金正恩の母の高ヨンヒ(コ・ヨンヒ)、晩年まで秘書として務めた金オクが知られているが、それ以外にも多数の女性と関係を持ったと言われている。韓国のニュースサイト、リバティ・コリア・ポスト(LKP)によれば、パク・エラもそのひとりだという。

(参考記事:金正日の女性関係、数知れぬ犠牲者たち

不幸な生い立ちを抱えた彼女は、金正日との関係で自らの運命を切り開いていった。以下、LKPの情報をベースに、彼女の半生をレポートする。

パク・エラは1947年4月11日、ソウル市の麻浦(マポ)区で生まれた。麻浦と言えば今でこそソウル市内の中心部に位置するが、当時は町はずれのスラムだった。母親は著名な芸術家だった。3歳の頃、朝鮮戦争が勃発した。母子は戦火のソウルを逃れ、軍事境界線にほど近い山奥の村に住む親類の元に身を寄せた。1953年7月に停戦協定が結ばれたころ、母子の暮らす家は北朝鮮領になり、自動的に北朝鮮の公民となった。

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北朝鮮政府の宣伝活動に携わることになった彼女は、後にこんなことを語っている。

「私を生んだ母親は有名な芸術家だったが、南朝鮮(韓国)の花街で芸術を売りながら生きる母性愛のない人だった。しかし、慈悲深い朝鮮労働党は捨てられた私を育ててくれた」

彼女は本当に母親に捨てられたのか、母親をそのように思っていたのか、建前でそのように語っていたのかはわからないが、彼女の芸術的センスは母親のものを受け継いだのかもしれない。

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一方、韓国政府系の北韓地域情報ネットによると、彼女は1949年に芸術家の父に連れられ、北朝鮮に入ったことになっているが、いずれにせよソウル生まれであることは確かだ。

北朝鮮において、韓国出身者は「成分(身分)が悪い」とされ、進学や出世などにおいて様々な制約を受ける。しかし、その類まれなる才能が身分制度の壁を越えるのに役立ったのだろう。

人民学校(小学校)の舞踊小組で踊りを習い、全国少年芸術祝典の独舞で高い評価を受けるなど、子供の頃から頭角を現した彼女は、12歳だった1958年に、平壌芸術大学(現在の金元均名称音楽総合大学)に飛び級で進学した。

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20歳になった1967年には全国舞踊個人競演(コンクール)で1等となった。1968年から1970年までは国立民族歌劇団の舞踊俳優として活躍し、その後はピバダ(血の海)歌劇団に入って革命歌劇「ピバダ」(血の海)や「花を売る乙女」でヒロインを演じた。万寿台(マンスデ)芸術団では「祖国のツツジ」などの歌劇に出演すると同時に、様々な舞踊作品を発表した。

ちょうどそのころ、パク・エラは運命的な出会いをする。金日成総合大学を卒業し、党中央委員会の宣伝扇動部に配置され、芸術事業の指導に当たってい後の最高指導者、金正日に見初められたのだ。

ステージ上で舞う彼女を見た金正日は側近に「心臓が止まるかと思った」と言ったと伝えられている。1972年12月、「花を売る乙女」の総会で金正日はパク・エラに功勲俳優の称号を与えるよう指示した。

その後、金正日は夜な夜なパク・エラを呼び出しては食事を共にし、関係を築いていったという。やがて彼女は、金正日の特別な配慮で入党が認められた。「成分が悪い」だけの人々には考えられないほどの大出世だった。

彼女はその当時のことを、1986年に発行された「チュチェ(主体)時代を輝かしめ」19巻で次のように語っている。

「私が部屋で仲間から祝福されているときのことでした。外から車が停まる音がしたと思ったら、今度はある幹部が部屋をノックして大急ぎで入ってきました。そこで意外な知らせを聞かされました。その幹部は、敬愛する将軍様(金正日)が私をお待ちになっているので、早く行こうと言うのです。逸る気持ちを抑えつつ、車に乗り込んだ私は夢見心地でした。誰彼ともなく与えられるわけではない最上の光栄に預かり、今度は親愛する指導者(金正日)から呼ばれたわけですから、当然のことでしょう」

金正日はこの当時、プロレタリア作家で朝鮮作家同盟委員長だった李箕永(リ・ギヨン)の長男、李平(リ・ピョン)の夫人で元女優の成恵琳と内縁の関係にあった。金正日に妻を奪われた李平は、大同江に身を投げて自ら命を絶ったと伝えられている。

(参考記事:金正日の内縁の妻、成恵琳と高ヨンヒとは?【上】

略奪愛と同時に、不倫までしていた金正日だが、「密営の春」「豊年の歌」などの舞踊作品で主人公を務めていたパク・エラに対しては、物心両面の支援を惜しまなかった。

同時に金正日は個別指導と称して、パク・エラを自らの執務室や別荘に呼び出したりしていた。慈江道(チャガンド)の江界(カンゲ)や淵豊(ヨンプン)にある招待所にも入り浸っていた。

既に北朝鮮の実権を握っていた金正日から寵愛されたパク・エラだが、1980年代に入ってからは試練の連続となった。金正日は成恵琳との間に金正男という男の子を授かったものの、2人の生活はうまくいかなかった。パク・エラの存在がその一因となったのだろう。

幹部の間では「金正日は成恵琳を捨てて、パク・エラと同棲するだろう」と囁かれていた。公式の場に立つことはなくても、事実上のファーストレディの座はもはや彼女のものかと思われた。ところが、それは彼女自身の痛恨のミスで水の泡と化してしまった。後輩の高ヨンヒを金正日に紹介してしまったのだ。

パク・エラより6歳も年下で優れた舞踊家だった高ヨンヒに、金正日は心を奪われてしまった。やがて金正日は様々な口実を並べ、パク・エラと距離を置くようになった。

1973年、高ヨンヒが万寿台芸術団のメンバーとして訪日した際、朝鮮総連で芸術分野を担当していた李某氏は、2012年にデイリーNKの取材に次のように語っている。

「実はパク・エラが日本に来る予定となっていた。ところが、金正日のお気に入りだった高ヨンヒが扇の舞の主役に抜擢され、訪日メンバーが変わってしまった」

金正日が2人と同時に付き合っていたのかなど、詳しいことは明らかになっていない。パク・エラは1987年に人民俳優の称号を授与され、万寿台芸術団から朝鮮人民軍協奏団に移籍したが、これは金正日との関係が完全には切れていなかったことを示していると言えよう。