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5日、朝鮮中央通信は北朝鮮の国家安全保衛部(保衛部)が、北朝鮮国内の重要な軍事施設に対する情報を収集した疑いで、外国人スパイと、北朝鮮の住民を逮捕したと伝えた。

保衛部は韓国の国情院のように、国内外の情報関連業務を統括する部署だ。金日成父子の世襲独裁体制を維持するために、住民の思想と動向を見張り、反体制的人物の捜索と、金日成父子を誹謗した者の捜査を行う。

保衛部はまた、逮捕した政治犯を収容する、政治犯収容所の管理も行う。更に、反探業務、すなわち対スパイ業務と、海外の情報の収集、海外での工作任務を遂行して、国境警備及び出入国管理業務を行っている。

国家安全保衛部は1945年11月19日に、金日成が平安南道の南浦市にある、’保安幹部訓練所’を現地指導したと言い、この日を創設の日として記念している。

だが、韓国では1947年2月に、北朝鮮の人民委員会の保安局として出発したと知られている。

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保衛部は政権樹立とともに内務省に移管されて、特殊情報署となり、その後、政治保衛局に改称、1951年に新設された社会安全省(警察)の傘下に吸収された。1952年10月に、再び内務省に移管されて、1962年10月に社会安全省として復帰した。保衛部は1973年まで社会安全部所属だった。

以後、金正日の後継者内定時期の73年5月に、金日成の指示によって、社会安全部の機能のうち、政治保衛に関する部門だけ分離して、国家政治保衛部に変わった。

その後、初代保衛部長である金炳夏(キム ・ビョンハ)が、無実の群衆を処刑して党の上に君臨し、党と大衆を離脱させたという理由で処刑され、1982年に’政治’を奪われて国家保衛部に格下げされた。

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そして1993年に再び、現在の国家安全保衛部に昇格した。一部では、1990年の国家保衛部創立45周年を迎えて、国家安全保衛部に昇格したという説もある。

保衛部は1962年から1973年まで、社会安全省の政治保衛局として、スパイや反体制的な人物の索出と検挙及び、対南工作を主導してきた。

政治保衛局は1967年~68年に内閣の副首相パク・クムチョル、前女性同盟委員長パク・ジョンエ、武力省のキム・チャンボンなど、いわゆる反党反革命宗派分子らを粛清した。1970年代までに、金日成の政敵や敵対階層6千人余りを処刑し、7万人余りの政治犯を収容所に監禁して管理した。

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1973年5月に、国家政治保衛部が独自の情報機関として出帆して、1980年代初頭まで、金父子の権威を毀損させる事件や、反動宣伝扇動罪に関する事件を集中的に処理した。

保衛部の事業の中で最も重要なことは、金父子の地位と身元を、最高の水準で安全に保障することだ。金父子に対する近接警護は、3個大隊で構成された護衛総局の親衛隊と、地方視察の時には、テロ分子の捜索のために働く国家安全保衛部の5総局(行事総局という)が遂行する。

保衛部は北朝鮮の唯一の情報機関でありながらも、海外の情報の収集や対南工作より、北朝鮮の世襲体制の保衛を第一の任務としている。対南工作は俗称、’3号庁舍’と呼ばれる統一宣伝部、社会文化部(対外連絡部)、作戦部と35号室(対外情報調査部)で行う。

そのため、保衛部は体制に不満を持った人と、制度に反抗する人などを危険対象として選定し、集中的に見張っている。このため、5日の外国人スパイ事件を’共和国の体制を脅かす’事件と見なして、保衛部で発表したのだ。

今北朝鮮では、労働党の権威が落ち、国家安全保衛部は、金正日政権の保衛の役割が一層高まっているのが実情だ。