2016年4月、中国浙江省の寧波市にある北朝鮮レストラン「柳京食堂」の支配人と従業員13人が韓国に亡命した事件は、全世界に衝撃を与えた。
その経緯をめぐり発生当初から疑惑の声が上がっていたが、事件の当事者であるレストランの支配人と一部の女性従業員がテレビに出演し「脱北は国家情報院が企画した」「自らの意思によるものではない」と主張した。
10日夜に放送された韓国JTBCの調査報道番組「イ・ギュヨンのスポットライト」に出演したのは、柳京食堂の支配人を務めていた許剛一(ホ・ガンイル)氏と、元女性従業員4人だ。
平壌外国大学出身の許氏は、中朝合弁で設立された柳京餐飲投資管理有限公司の北朝鮮側の社長を務めていたことを示す書類と、13人のパスポート画像を示した上で、集団脱北の経緯について語った。
許氏は2014年12月、韓国の国家情報院の職員と接触し、情報提供者となった。その理由については、張成沢氏の処刑に巻き込まれて、5人の同窓生が裁判を受けることもなく粛清されたのを見て、北朝鮮の体制に反感を持ったからだと語った。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面その後2年間、求められるままに情報を提供していたが、自らの行為を知ったある人物からカネを要求されたことで身の危険を感じ、脱北したいと国家情報院に伝えた。すると「ともかく誰か連れてこい、1人では来るな」と言われた。約束はできないと答えたところ、「もし1人できたら北朝鮮大使館に通報する」と脅迫された。
「通報するならしろ、韓国には行かない」と言って電話を切った許氏。1時間後に電話がかかってきて謝罪され「詳しくは言えないが大きな作戦がある、来ればわかる、来たら勲章がもらえる、国家情報院で働けるようにしてやる、欲しいものはなんでも手に入る」「朴槿恵大統領が批准した作戦だ。大統領が待っている。どうか我々を助けて欲しい」と言われたと証言した。
当初は2016年5月30日に亡命実行の予定だったが、4月3日の夜に電話がかかってきて「4月5日に出発しろ」と言われ、言われたとおりに出発し、7日に韓国への入国を果たした。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面韓国に来てからテレビを見て「どんな大きな作戦かと思ったら、選挙に勝つためのものだった」ことを知ったと語るた許氏。発表の5日後(4月13日)には国会議員選挙が予定されていた。国家情報院の職員は「民主党(当時の野党)は従北(親北)勢力だ、それに勝つために(脱北した事実を)公開した」と言ったという。
集団脱北を主導したことで報奨がもらえることになっていたが、朴槿恵大統領(当時)が弾劾されたことで目論見が外れた。国情院の担当者からは「文在寅というアカが大統領になったからもうだめだ、セヌリ党(現自由韓国党)が再び政権を握るまで待ってくれ」と言われた。利用され、裏切られたという思いで、メディアの取材に応じたと述べた。また、一連の事件について「誘惑拉致」との表現を使い、国家情報院を批判した。
一方でJTBCは、女性従業員の取材にも成功した。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面ユンさん(仮名)は「(脱北の)理由について言いたいことがある。遠くにいる両親にも伝えたいことがある」と述べ、クォンさん(仮名)は「利用されたと思うと虚しい。2年間、身を隠して暮らしてきたがもう終わりにしたい」とインタビューに応じた心情を明らかにした。
番組は、許氏と4人の女性従業員の証言に基づき、脱北の一部始終を再構成した。
2016年4月3日の夜、国家情報院の職員からの電話を受け取った許氏は「緊急事態だ、4月5日に出発せよ、ともかく成就させよ、作戦が失敗すればおしまいだ」と言われた。4月4日は朝から飛行機のチケットを購入し、従業員には荷造りを命じた。女性従業員たちは、別の都市のレストランに行くものだと思いこんでいた。
4月5日、従業員のうち5人が姿を消した。尋常ならざる雰囲気を感じ、大使館に通報に向かったものと思われる。焦った許氏は国家情報院の職員に助けを求めた。その日の夜、4台のタクシーに分乗して上海浦東空港に向かった。
地下駐車場でパスポートとチケットを渡された従業員たちは、ようやく自分たちの行き先が海外であると知ったが、韓国に行くとは想像すらしていなかったという。不安には感じたが何も言えなかったという従業員たちは、翌日午前1時20分発の飛行機に搭乗し、マレーシアのクアラルンプールに向かった。
空港からタクシーに乗って到着したのは、クアラルンプールの韓国大使館だった。彼女らはその時ようやく自分たちの行き先を知り、支配人との間で激しい口論となった。館内に入った13人は「自由意志で脱北することを確認する書類」に署名することを求められた。
彼女らが韓流映画を密かに見ていることを知っていた許氏から「帰るんだったら帰れ、帰ったらお前らは死ぬ」と脅迫され、書類に署名した彼女らは「支配人のことをとても恨んでいる」と述べた。
支配人は「国家情報院に騙され、愛国だと思いこの事件を主導したが、今では良心の呵責を感じている」と述べた。
13人が韓国に到着した翌日、韓国統一省は集団脱北が起きたことを発表した。その様子をテレビで見ていたクォンさんは激しく動揺したという。ユンさんは北韓鮮離脱住民保護センター(旧合同尋問センター)で取調官に「出発する時は脱北することを知らなかった」と述べたところ、「かなり前から知っていたと言っている人がいるのに、なぜ違う話をするのか」と言われたという。
その後、社会に出て韓国人として暮らしている彼女らだが、メディアの取材を徹底的に避けてきた理由について「何か言えば北朝鮮にいる両親の不利益になるかもしれないと思った」からだと説明した。
クォンさんは「両親には会いたいが、不利益になるかもしれないと思うと何も言えない」と述べた。一方のチョさんは「北朝鮮に帰って両親に会いたい」と述べた。取材に応じた5人の意見は、韓国残留、北朝鮮帰国で割れているが、いずれも「真実が知りたい」と述べている。
この件について国家情報院はJTBCの取材に「彼女らは自らの意思でやって来たと述べた」「関連事案を公開した場合、経由国などとの外交問題が発生しうるため、説明できない」と書面で回答した。統一省も同様の回答をした。
北朝鮮研究の権威のひとりで、世宗研究所の統一戦略研究室長を務める鄭成長(チョン・ソンジャン)氏は「朴槿恵政権の対北朝鮮政策が成果を納めているというイメージを見せつけて、国会議員選挙を念頭に置き、『北風』を誘発するためのものだと思われる」と述べた。「北風」とは、政治的に利用するために北朝鮮の脅威を過度に煽る行為を指す。
与党、共に民主党の国会議員で警察大学の教授を務めた表蒼園(ピョ・チャンウォン)氏は、「元従業員が自らの意思に反して強圧的に移動させられたのならば救済されるべき」と述べた。
韓国の現行法は、北朝鮮国民も韓国国民と見なすため、脱北して韓国に入国した者が合法的に北朝鮮に帰国できないことになっている。