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黄長ヨプ・北朝鮮民主化委員会委員長(元労働党書記)が10日午前、自宅で亡くなったまま発見された。

同委員長は住民が飢える状況下で住民を弾圧する金正日の独裁に幻滅し1997年に亡命した。亡命当時、同委員長は北朝鮮は崩壊まで5年も持たないと予想していた。

亡命から13年が過ぎた今日、北朝鮮は後継者金正恩を閲兵式の主席団に登場させ3代世襲を公式化した。同委員長の念願の北朝鮮の民主化と統一は残された者の役割となった。

同委員長は1923年1月23日に平安南道江東郡で4人兄弟の末っ子として生まれた。解放後に母校の平壌商業学校で教師として在職中に、教師を続ける為には党に加入しなければならないという同僚の誘いから1946年11月に朝鮮労働党に入党した。

その後、1949年にモスクワ総合大学哲学部を卒業し1953年に北朝鮮に帰国し、金日成総合大学哲学講座長、1958年には中央党書記室理論書記に抜擢された。

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最高人民会議代議員、内閣参事観などを経て1965年に金日成総合大学総長、1972年に最高人民会議議長、1979年に朝鮮労働党書記、1984年に労働党国際担当書記と出世街道を歩いた。

同委員長は金正日との初めての出会いを「幼い年齢にもかかわらず、政権に対する欲望が大きかった」と回顧した。

回顧録によれば、1959年にソ連で共産党第21次大会に参加するためにモスクワに向かった際、高級中学校の卒業濫?カだった金正日も同行し、47歳で旺盛な父が毎朝出かける際には手を貸し靴も履かせるほどだった。

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この時からもしかしたらこの少年が自分の叔父を追い出し権力を継承するかも知れないという考えを持ったと回顧している。金正日の性格が過激で嫉妬心が強く手段を選ばない傾向がある為、権力を掌握する事になれば、国政が破綻するだろうと憂慮していたという。

また、金日成の非公式の訪中に単独で遂行し金正日に主体思想を教えるなど、金日成・金正日の信任が厚かった。1994年の金日成死亡後も権力の核心部にいた。

北朝鮮の経済難が尋常ではない状況を見守りながら、金正日に従うことは歴史と民族に対し許される事が出来ない罪である事が明らかだったと回顧していた。

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住民が飢える状況下で住民を一層弾圧する金正日独裁に対し失望し、1997年2月に北京駐在の韓国総領事館を通じて亡命を申請した後、フィリピン経由で1997年4月20日に韓国に入国した。

亡命後は講演と著述活動によって首領独裁を批判し北朝鮮の民主化の正当性の必要性を説いてきた。

特に、今年3月末に米国を秘密裏に訪問し政府関係者、議会、民間団体に対し北朝鮮の実情を伝えた。4月には日本を訪問し「金日成の時代よりも金正日の独裁が10倍は厳しい」と強く非難していた。

この様な旺盛な活動は金正日の目の上のたんこぶの様な存在となり、暗殺の脅威に晒されるようになった。

絶え間ない脅迫と暗殺計画は、かえって同委員長の金正日政権に対する批判と北朝鮮の民主化活動に確信を与えた。最近までも著述活動や講演等を通じて金正日政権と3代世襲を強く批判していた。

黄長ヨプ委員長は残念ながらこの世を去ったが、彼が残した北朝鮮の民主化は動き続けている。