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キム・ジョンウンは28日に人民軍大将の称号を与えられ、後継者として公式に対内外に存在を浮?オた。これで北朝鮮は世界に類例がない3代世襲国家となる。

しかし、金正日が金日成から権力を受け継いだ1970年代と現在の国内外の情勢が全く違っており、今後の北朝鮮体制の未来はより一層不透明にである。特に、金正日とジョンウンの世襲過程の違いはソフトランディングの難しさを示している。

金正日は父金日成の七光りに頼らず熾烈な権力争いに勝利し権力を手に入れたが、キム・ジョンウンは徹底的に金正日の演出によって作り上げられた。

ただし、キム・ジョンウンがその他の兄弟よりもリーダーシップなどの資質が抜きん出ていたとの評価もあるが、本人の力で後継者を勝ち取ったと見るのは難しい。

金正日は後継者に指名されるまで10年近い期間があったが、ジョンウンは政治経験が一切無い。金正日は対外的に後継者となるまでの7年間を「党中央」としての偶像化作業を経ており、公開後も14年間を権力基盤を固め地位を安定化した。

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北朝鮮が金正日を内部では後継者に指名しておきながらも、公式的な公開を何年間も行なわなかった背景には権力機高ニ幹部を掌握する時間が必要だったからだ。権力を誰よりよく知っている金正日は、まず政治的基盤を積んだ後に後継者としての歩みを本格化しさせた。

これとは違いキム・ジョンウンは十分な時間を与えられずに後継者に公式的に指名された。政治経験の不足以外にも指導層への掌握力、権力の正当性においても不安要素が多いといえる。

金正日とジョンウン世襲過程の最も大きな違いは、その地位を誰の力で得たかということだ。黄長ヨプ・北朝鮮民主化委員会委員長の証言によれば、金正日は10代の時から強力な権力欲を持っていた。

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大学卒業後、党中央委を通じて政治に入門し、組織指導部で行政の全般的な業務を把握し始める。金正日は母金正淑(キム・ジョンスク)と厚い信頼関係にあった金一(キム・イル)、吳振宇(オ・ジヌ)ら抗日革命勢力をバックに甲山派の粛清を行ない権力の中心に邁進した。

金正日の最大の競争相手は金日成の弟の金英柱(キム・ヨンジュ)だった。この2人は1960年代後半から1970年代初期まで金日成の絶対権力化を追求して忠誠競争を行った。

権力闘争は1974年まで続き金日成の信任と共に親戚の支持、パルチザンの支援を金正日が受けるのに成功する。と同時に次第に影響を拡大する継母金聖愛(キム・ソンG)一派を粛清した。

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また、金正日は1974年4月に「党唯一思想体系の10大原則」を打ち出し、金日成の唯一独裁を理論的に完成。これに党の唯一的指導体制理論を加え金日成の思想に基づいた金正日の指導という告}を作り出した。

政治的な地位固めに続き経済的な業績作りに向け1974年10月から12月までに「速度戦」というスローガンを提示し、期限付きの大衆革新運動の「70日戦闘」を直接指揮した。70日戦闘の成功的な遂行によって党内で経済管理能力を認められ、金正日の指導能力は経済分野にまで広がった。

キム・ジョンウンも後継者内定後から軍事、経済分野での業績作りに励んでいる。これまで明らかになっているのは、平壌祝砲夜会や2012年強盛大国を目標にした各種建設事業。天安艦事件など一連の対南挑発もキム・ジョンウンの主導との主張も提起されている。

しかし、経済的に難しい状況に直面している点も、このような業績作りが成果を上げる事が不透明に見える。

その他にも後継者登場過程で注目する点は、金日成が主導した内部作業だ。

金日成は当時、共産主義者が世襲が可能なのか? という対内外的の批判世論を意識し、金正日の突如とした浮上を非常に警戒した。速度を調節し後継者としての業績を着々と積む時間を与えた。

しかし、金正日は最側近の張成沢(チャン・ソンテク)すら全面的に委任しないほどに権力の集中を行なう特性がある。

キム・ジョンウンにも委任はするが、如何なる形でも介入と干渉を行なう為に、キム・ジョンウンの政治的権力を自らの下に置こうとする可能性大きい。

この場合、権力継承自体が円滑になさずジョンウンの立場が曖昧になる点からも金日成°熕ウ日の世襲過程よりも複雑になると予想される。