数万人の人が避難を始めた。ある人はテレビを、ある人は食べ物を持っていたが、ほとんどの人が手にしていたのは金日成氏の肖像画だった。命より肖像画の方が大切とされるからだ。中にはけが人もいて、まるで戦争が勃発した直後のような状況だった。
(参考記事:「将軍様の肖像画」と一緒に高校生を溺死させる北朝鮮の思想教育)文字通り街が「火の海」と化した。火災が収まったのは翌日のことだった。
当局は130人が死亡したと発表したが、複数の目撃者によると、死者は1000人を下らないという。翌日の労働新聞は、ザイールの新聞が金正日氏の労作(論文)を取り上げたことを大きく報じたが、事故のことには一切触れなかった。
「収容所送り」に
金日成氏は、地域の労働党委員長と保安署長の労をねぎらい、共和国英雄の称号を与えた。しかし、「大量の地雷、ミサイル、薬莢が失われ、工場が壊滅的ダメージを負ったことに金日成氏が激怒している」との噂はなかなか収まらなかった。