人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

北で詩文学を専攻した私が、南側に来て偶然勉強するようになった‘女性学’は、両性の肯定的関係改善で、人類の新しい平和の扉をあける、非常に勇気づけられる学問だった。これは言いかえると、女性学が今までの南北朝鮮関係に挑戦する最高学問に位置づけられることができ、またそうならなければならないという意味でもある。そのような側面から、北朝鮮の女性が抱いている問題をよく見ることは、この時代が提議する課題に応じるという意味がないか考えた。

北朝鮮の女性問題が政治化してきた過程

1945年8月15日、日本の植民地主義の敗北が宣布されると、ソ連軍の後光の中で元山上陸(9月19日)を断行した金日成は、9月21日に平壌に入城して、10月10日に朝鮮共産党を創立した。4日後に平壌の牡丹峰の運動場で凱旋演説を行い、1ヶ月後の1945年11月18日、北朝鮮の勤労団体組職としては初めて、女性同盟を組織した。

北朝鮮(金日成氏)が女性同盟の組職をこのように急いだ理由を見てみよう。当時、パルチサン出身を主とした共産党勢力は、‘組職の純純性’云々と言って、大衆を抱きこまなかった結果、他の勢力に圧倒される情況に陥っていた。この危機の状況は、金日成にとってどの政治勢力にも視線を向けない女性 – 当時は些細な存在として扱われた – 一般に目を向けさせ、共産党の支持の確率を最も高める独立変数として捉えさせた。そして党外の団体としては初めて、女性同盟が北朝鮮に組職された。更に、職業総同盟、民主青年同盟、農民同盟が結成され、その勢力に基づいた北朝鮮臨時人民委員会が樹立した。

だが、創立初期のこれらすべての社会団体は、明示上の性格だけ帯び、ただ大衆との有機的連結に過ぎなかった。これに対する解決策として、金日成は土地改革法令、男女平等権法令、重要産業国有化法令を発表した。農民たちには土地を、労働者たちには工場を、女性たちには男性と必ず一緒に主権行事に参加する権利を該当の社会団体を通じて付与することで、北朝鮮の多数階級を自らの影響下に置いた。

人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

金日成が最初の民主選挙を2日後に控えて、女性同盟の参加者たちに会った席で、女性たちが選挙に積極的に参加するように強調した事実は、金日成が自分の勢力の支持者、後援者として女性の役目をどれだけ重視してきたかを見せてくれる一つの事例と思われる。

北朝鮮は国家の前に問題が提議される度に、女性という勢力を効率化しなければならない必要性を感じていた。そして戦時には、交換手や看護婦の資格で、女性たちの戦線歎願を積極的に奨励した。彼女たちは、男性だけで構成された集団特有の荒い雰囲気を柔軟化させると同時に、彼らの戦闘力を一層高める役割も平行して行うようにした。もちろん、それに先立つ重要な政治効果は、男女平等のスローガンの下で、‘女性も戦線に参加できる’という‘両性同等’の理念の勝利だった。これは金日成個人の創作品ではなく、旧ソ連の事例を模倣する過程で得られたものだった。

戦争が終わり、戦線から無事に家に帰って来た男たちは多くなかった。当時、社会にはびこった戦争ヒステリー患者、負傷者、戦死者…。戦後の人民経済の建設の人力の空白は、致命的なものだった。北朝鮮の都市と農村は文字どおり灰で覆われていた。ある外信記者が、“百年かかっても立ち上がるのは困難”と言った表現そのままだった。人々は疲れ果てていた。北朝鮮が再び立ち上がるには、ある画期的な凝集力が必要だった。男性の努力だけで、戦後の復旧建設は絶対に不可能だった。こうした状況で、金日成は1958年7月19日に内閣決定84号、‘人民経済の各部門に女性を引き入れることについて’を採択した。女性を社会事業に動員させ、戦後の復旧建設の緊急な人力の空白を埋めるようにというものだった。

人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

更に、1966年10月20日-10月22日まで、全国保養員大会を開いて、この間の児童の保育・教養政策の遂行の過程を総和して、女性の人力をより効率化させる根本対策を討議した(北朝鮮の託児保育制も、やはり旧ソ連の経験を模倣したものだった)。1966年11月1日から、‘母性労働者たちの労働時間制’を全国的に実施するようにした。すなわち、力仕事に携わる母性労働者のうち、満13歳までの子供を3人以上もつ女性は、1日の労働時間を6時間に減らした。また、連続生産の工程と別に、作業に遅く取り掛かったり、先に終わらせることができない部門で働く母親の労働者は、平日5日(1日8時間ずつ)勤めて、日曜日を含めて週2日は家で休ませた。この規定に当たる母親の労働者たちの食糧や労働保護物資、社保による年金、定休は以前と必ず一緒に保障するようにした。

しかし、こうした措置の実現はまだ困難であった。通りごとに点在する居酒屋や、月給をもらえる日になれば、お金の封筒を握り締めて家に向かう男性を執拗に誘って、懐という懐を払い落とす、利害に抜け目ない‘街頭の女性たち’……。金日成は‘建国思想の大改造運動’という、もう一つの発想で、こうした‘非社会主義的’女性たちまで、社会主義大建設に引き入れた。

女性たちを労働に大挙して引き入れる際に、足首を取るのはやはり子供の保育の問題だった。単純な保育のレベルを越えなければならない必要があった。そのため、1971年8月から、託児所や幼稚園に専門医療陣を配置して、保育教養施設を女性たちの職場にまで大々的に構築(以前は人口密集区域に、託児所や幼稚園があった)し、幼稚園の給食体系を新たに取り入れて、育児保育制度の物質的土台まで作った。

人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

1972年には男性と同等な女性の賃金権、女性の労働の保護、有害労働の禁止、産前産後の休暇、家内作業班及び家内協同組合の設置など、女性のための実質的措置を、社会主義憲法として採択した。1990年代初頭から、77日だった産前産後の休暇を120日に伸ばした。2ヶ月になった新生児を託児所にあずけた結果、発病率が高く、それによる母の病欠率が増加したせいだった。

北朝鮮が経済的沈滞期に入り、女性の問題をもう一度政治化するために、1990年に新たに制定した家庭法で、家庭扶養義務者を家族で規定した。これは、家庭扶養義務者を‘国家’で設定する前の法律から国家が逃避して、その重荷を‘家族’の名の下に、女性一般に一方的に負わせるものだった、北朝鮮の暗鬱な実態が反映されていた。