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1990年代後半の大飢饉「苦難の行軍」のころ、北朝鮮の人びとは食糧を求めてデモや集会を開いていたと伝えられる。2000年代に入ってから暮らし向きは多少落ち着いたが、苦境は依然として続いている。

2004年11月に咸鏡北道(ハムギョンブクト)の会寧(フェリョン)で自由青年同士会と呼ばれる組織が活動を行ったことは、デイリーNKでも既報のとおりだが、その前の2003年4月に咸鏡南道(ハムギョンナムド)の咸興(ハムン)で反政府的な動きがあり、保衛部(秘密警察)が大々的な捜査を行ったことが、脱北者の証言で明らかになった。

証言したのは、咸興出身のクォン・サンホ(仮名)さんと、母のキムさんの2人だ。証言によると、事件が起きたのは2003年4月の金日成氏の生誕記念日(4月15日)を控えたある日のことだ。

咸興大劇場の壁に、大きな文字で次のような落書きがされているのが発見された。

「金正日が朝鮮を台無しにした」

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「咸興を羅津(ラジン、経済特区)のように開放せよ」

「改革開放だけが生き残る道だ」

2人によると、咸興では90年代後半の大飢饉「苦難の行軍」のころから、反政府的なビラが撒かれたり、落書きがされたりする事件が頻繁に発生していたが、2003年の事件は金日成氏の生誕記念日を数日先に控えた重要な時期だっただけに、国家安全保衛部が大々的な捜査に乗り出した。以下は、クォンさんとのインタビュー内容だ。

金日成氏生誕記念行事のぶち壊しが目的?

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◯落書き事件の発生場所は?

2003年4月中旬、咸興大劇場の裏手の壁で発見された。城川江に掛かるオス橋に向かう大通りから見える高さ1.5メートルの壁にあった。

◯いつ、誰が発見したのか?

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第一発見者は恩情一洞(ウンジョンイルトン)の人民班長(町内会の会長)だった。朝8時に発見しすぐに保衛部に通報したようだ。すぐに要員がやって来て、撮影した上で布をかぶせて隠した。数日後に4.15の祝日(金日成氏の生誕記念日)を控えた重要な時期で、朝鮮労働党の咸興市党(支部)が行事の準備で大忙しだった時に起きた事件だった。行事をぶち壊したかったのだろう。

4月なら6時には夜が明けるが、人民班長が通報するまで誰ひとりとして通報しなかった。下手に通報すると保衛部に連行されるから、見て見ぬふりをしたのだろう

「金正日が朝鮮を台無しにした」

◯なんと書かれていたのか?

「金正日が朝鮮を台無しにした」「咸興を羅津のように開放せよ」 「改革開放だけが生き残る道だ」と墨で書かれていた。1文字の大きさは子どもの頭ほどだった。

◯容疑者は逮捕されたのか?

あの大きな咸興でどうやって捕まえるのか。国家保衛部、咸鏡南道保衛部が合同捜査組織を立ち上げて、大劇場の周辺地域の無職者と不良を捕まえて徹底的に捜査したが、結局は捕まえられなかったようだ。

食糧を求めて家を留守にしている人が多かったのも、捜査難航の一員だ。行事の期間中は、保衛員が金日成氏の銅像や研究室に潜んで、犯人を捕まえようとしていたようだ。

◯容疑者の特定すらできなかったのか?

何もわかっていない。保衛員が大人を集中的に捜査していて、落書きが書かれた高さを見ると、大人の仕業であることは確かなようだ。

「金正日氏なんかを信じていたら死んでしまう」

◯政府に不満を持つ人が多いとのことだが?

食糧難のころから「金正日氏なんかを信じていたら死んでしまう」と思い、商売を始めた。7.1経済措置の後は、物価が高騰してほとんどの人の商売がダメになった。それでも職場には出勤しなければならないから、二重の苦しみを味わっていた。

咸興の人びとは、自分たちの苦しみは金正日氏の失政によるものだと考えている。しかし咸興には、恵山(ヘサン)、羅津、平城(ピョンソン)などから行商でやって来た人も多いので、落書きは地元民じゃない人がやった可能性がある。

クォンさんによると、咸興では落書き以外にも、反政府ビラ、肖像画紛失が何度も発生した。2003年には、金日成氏、金正日氏の肖像画が破られて城川江に捨てられているのが発見され、保衛部の集中検閲(監査、取り締まり)が行われたという。

この記事は2006年2月2日に作成されたものです。