公開処刑を「見学」に行かされる北朝鮮の小学生たち

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デイリーNKジャパン編集部は3月、北朝鮮の政治犯収容所で22年に及ぶ時を過ごした末、韓国へと脱出した女性、パク・クモクさん(30)のインタビューを行った。パクさんは0歳だった1988年、家族と共に平安南道(ピョンアンナムド)の北倉(プクチャン)郡にある18号収容所に収容され、2009年まで同地で過ごした。

石を投げボロボロに

脱北者の証言、人工衛星が撮影した画像の分析などを通じ、北朝鮮には現在、最低でも5つの政治犯収容所が存在することが分かっている。それぞれの収容所はひとつの市にも匹敵するほどの巨大なもので、韓国の政府系シンクタンク・統一研究院によると、収容者数は2013年時点で8万~12万人に及ぶ。

だが、これまで韓国入りした約3万人の脱北者のうち、収容所に入れられた経験を持つのは数十人に過ぎない。パクさんの貴重な証言を、3回に分けて紹介する。

―収容所に入れられた理由は? 「軍人だった叔父が、脱走し脱北を図ったかどで逮捕され、連座制により連れてこられました。祖父母や叔父一家、私の家族まで含め13人ほどが連れて来られたと聞いています」

北朝鮮の収容所の特徴のひとつが、連座制だ。収容所送りになるほどの罪、例えば「最高尊厳(金日成一族)の冒とく」、「ポルノ拡散などの反革命罪(社会主義革命建設の阻害)」、「韓国や外国への情報漏えい」、「人身売買」、「国家財産の横領」など犯した場合、その家族、親類までが収容所に送られるのである。

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―18号収容所の規模は? 「正確には分かりませんが、地区は10に分かれ、人民班(町内会)は私のいた班には442の数字がふられていました。一つの人民班には40~42世帯、一世帯あたり平均6人が住んでいました」

これらの数字を単純に掛け合わせて推計すると、収容者数は10万人を超える。一方、前出の統一研究院の研究では、18号管理所の収監者数は1万5000人とされている。これは1987年以降、18号収容所の一部が教化所(刑務所)として運営されたことが関連しているものと見られるが、それについては後述する。いずれにしても、北朝鮮は日本や韓国と違い、国家機関の情報が全くといっていいほど公開されていないため、労働党や治安機関の幹部以外の人物が矯正施設の全貌をつかむのは不可能だ。

―家族はみなどうなりましたか?「私は1人で韓国に来ました。姉と妹は今も音信不通です。収容所にいたときに、妹が2人死にました。1人は4歳、1人は1歳の時に栄養失調で死んでしまいました。炭鉱で働いていた父も97年に肺の病気で亡くなりました」

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―亡くなる人は多かったですか? 「新生児は1歳になるまで、半分は死んでしまいました。食べる物が無いなか、山で毒キノコを食べた母が授乳して、子どもが死んでしまうことも多かったです」

―収容所内には学校がありましたか? 「はい。小学校(4年)と高等中学校(6年)がありました」

―いくつありましたか? 「私が知るだけでも5つの小学校と、2つの高等中学校がありました。小学校のうち2つは炭鉱地域にある非常に貧しい子供が多く通う学校で、私もそこの生徒でした。私の通っていたハンリョン小学校は、学年に3クラスがあり、1クラスに42人の生徒がいました」

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―小学校での生活は? 「授業は6時間という決まりでした。ですが実際に行われるのは2時間だけです。その時間すらも金日成、金正日の教えを学ぶだけで、読み書きを学校で習った記憶がありません。思想教育が終われば動員(強制労働)です」

―どんな労働をさせられるのですか? 「収容所内にあった炭鉱で『支援作業』をやらされました。石を運んだり、中には発破を手伝わされたりした子もいました。けがをする生徒が後を絶ちませんでしたが、死人が出る程では無かったです」

―労働に報酬は? 「小学校、中学校(高等中学校)とずっと働きましたが、生徒には何ら報酬は与えられません。中学校になると、炭鉱に使う坑木を運ぶといった重労働が多くなります」

―働くのを拒否することはできないのですか? 「そんなことできません。仕事の手を抜くと、すぐに先生が木の棒で足と手の甲を殴りれます。それでも父が97年に亡くなってからは、私も働いて稼がなくてはならかったので学校に行くことが減りました。すると今度は、私の分の仕事まで別の生徒がしなければならないので、彼らから恨まれ、いじめられ暴力を振るわれました。貧しい家の子はいつもアザだらけでしたよ」

18号収容所の子供たちは、学校では金日成・金正日・金正恩一家を崇め、祖国に命を捧げる軍事思想教育しか受けられず、あとは強制的に労働させられる最悪の人権侵害を受けている。さらに収容者の間でも、弱い者を叩く暴力の連鎖が起きている。

北朝鮮政府は国連の核心条約のひとつ、「児童の権利に関する条約」を批准し、2010年には国内法として「児童権利保障法」を制定している。その上で、国連人権委員会に対し「児童労働は遥か以前に根絶された」と主張している。

それがいかに虚構に満ちた主張なのか、パクさんの証言が雄弁に語っている。パクさんは「収容所を離れた2009年にも同様のことが行われていた」と証言する。収容所の子供は今も虐げられ続けているのだ。

パクさんは高等中学校を卒業してからは、収容所内の炭鉱で働くこととなった。

―炭鉱ではどんな仕事をしましたか? 「発破や採炭などの重労働は男性が行い、女性はトロッコでの石炭の運搬や、選別作業を主に担当していました。私もそうでしたが、時には男性労働者に交じり、発破作業を手伝うこともありました」

―月給はもらえましたか? 「はい。でも暖房費として石炭代、電気代などを引くと、結局いくらも残りませんでした。食糧はトウモロコシの粉で配られました。しかも女性だからと、配給も少なかったです」

―学生の時も炭鉱で働かされていましたが、本格的に働いて何か変わった点がありましたか? 「危険な作業が増えました。炭鉱自体が粗末な作りである上に、坑木なども弱っており事故も多かったです。ある時はガス爆発が起き、私と同じく収容者だった作業班長が私をかばって死にました。命の恩人です。しかし彼には、何の補償も行われませんでした」

―炭鉱で殴られたことは? 「作業中に坑木を倒すミスをしたことがあります。それを見た幹部(炭鉱を管理する国家職員)は、その場にあったノコギリと金槌、斧などで私をメチャクチャに痛めつけました。ノコギリの歯を腹部に当てて引くものだから、衣服が裂け、皮膚と肉も切り裂けました」

収容所では公開銃殺もあった。パクさんが振り返る。

―公開銃殺はありましたか? 「頻繁に行われました。見物するようにと多く人を集め、木にくくりつけた人物に向かって石を投げるように言われました。ボロボロになる頃に銃で3人が3発ずつ撃ちます」

―はじめて見たのは? 「子供の頃、母に手を引かれていきました。94年に金日成が死ぬ前のことです。学校でも公開銃殺があるからと見に行かされたことがあります」

―どんな罪で銃殺になるのですか? 「一番多かったのは、収容所を脱出しようとして捕まる場合でした。とはいえ、すぐには殺しません。死ぬ直前までさんざん働かせて、骨と皮だけになり使い物にならなくなる頃に、他の収容者への見せしめのため銃殺するんです」

―銃殺はどこで行われましたか? 「大同江(テドンガン)の河原で行われました。2004年に収容所内での移動が禁止されて以降は、イバンコルという谷のような場所に変わりました」

―最後に銃殺があったのはいつですか? 「(収容所を離れる直前の)2009年の9月でした。この時は直接見ませんでしたが、当時も以前と変わらず行われていました」

2009年といえばわずか8年前である。国際社会の監視の目が届かない収容所では今日も凄惨な人権侵害が続いている。次回は18号収容所の仕組みについてまとめる。(続く)

高英起(コウ・ヨンギ)

1966年、大阪生まれの在日コリアン2世。北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。北朝鮮問題を中心にフリージャーナリストとして週刊誌などで取材活動を続けながら、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に 『脱北者が明かす北朝鮮』 『北朝鮮ポップスの世界』 (共著) 、 『金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』 『コチェビよ、脱北の河を渡れ ―中朝国境滞在記―』 など。

脱北者が明かす北朝鮮 (別冊宝島 2516) 北朝鮮ポップスの世界 金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔 (宝島社新書) コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記