北朝鮮の金正恩党委員長の異母兄・金正男(キム・ジョンナム)氏殺害に関与したと見られ、インターポールにより国際手配されているリ・ジヒョン(33、男性)容疑者の詳しい背景が明らかになった。金正恩氏の通訳として将来を嘱望されたエリートでもあった彼が、どのようにして自分の手を汚すに至ったのか。
元ベトナム書記官の独占証言
「リ・ジヒョン容疑者は前科者として、手柄を欲していた」
23日午後、元北朝鮮外交官の韓進明(ハン・ジンミョン、43歳)氏がソウル市内でデイリーNKジャパンに独占証言した。
平壌出身の韓氏は金日成総合大学フランス語学科を卒業し、2008年から外務省に勤務。2013年から15年1月までベトナム大使館で三等書記官を務めたベトナム通だ。
リ容疑者については、マレーシア警察が今月22日にその経歴の一端を明かしている。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面過去に2度ベトナム大使を歴任したリ・ホン氏の息子で、1984年生まれ。父に従いベトナムで育ち、2009年11月から11年2月までベトナム大使館で補助書記官として勤務していた。その後、北朝鮮に帰国し、2015年1月と16年9月の北朝鮮外務省高官によるべトナム訪問の際に通訳を担当したという。
だが、ベトナム当地の事情をよく知る韓氏は「この情報だけでは、リ容疑者が金正男氏暗殺に関与した背景を知る上で十分ではない」と指摘する。
そしてリ容疑者がベトナム大使館勤務中の11年2月に突如帰国したウラに「国家安全保衛部(現国家保衛省)による逮捕および召喚」の事実があったことを明かした。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面「リ容疑者は当時、ベトナム大使館に勤務しながら週に三度、ハノイ市内のベトナム国立大学で英語を学んでいた。だが、朝の出勤時間も守れず、ぼうっとする時間が多かった。勤務時間後もすぐに自分の部屋に戻り食事時にもなかなか出てこないため、いぶかしんだ保衛部が調査に乗り出した」(韓氏)
保衛部員は世界中の北朝鮮大使館に必ず常駐し、駐在国での諜報任務を行うかたわら、駐在外交官の動向を監視する。
「だがリ容疑者がなかなか尻尾をつかませなかったため、保衛部は『急用』と偽り、彼に北朝鮮に一時的に戻るよう促した」(同)
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面「それを信じたリ容疑者が荷物を置いたままハノイを離れるや、一斉に荷物のチェックを始めた。するとノートパソコンから大量の韓流ドラマファイルが見つかり、リ容疑者はそのまま二度とベトナムに戻れない身になった」(同)
厳しい情報統制を敷く北朝鮮では、韓国ドラマを見ることは重罪に問われる。
(参考記事:北朝鮮の女子大生が拷問に耐えきれず選んだ道とは…)コピーや流布など、その程度がひどい場合には、銃殺や「地獄の一丁目」として知られる政治犯収容所行きもありうる。いくら父親が外務省の幹部とはいえ、リ容疑者も数年の刑を免れないはずだった。
韓氏はしかし「リ容疑者は翌2012年4月15日に釈放され、元々所属していた外務省4局に復帰した」と明かす。
北朝鮮では故金日成主席の生誕100年を記念した大恩赦が同年1月から行われ、数千人の収監者が釈放されたとされる。4局はアジア・太平洋地域を管轄し、マレーシア、ベトナム、日本などが対象に含まれる。
とはいえ「恩赦だけならまだしも、元の職場に復帰するとは異例中の異例」と韓氏は指摘しながら、「おそらくこの時に、当局と本人の間で何らかの取引があったものと思われる」と推測する。
「『思想犯』というレッテルを貼られ、将来出世の道を閉ざされたはずのリ容疑者に復権の『エサ』をぶら下げ、金正男暗殺グループへの加入を促したのではないか」というのだ。
そう考える根拠のひとつとして韓氏は、ベトナム大使館にいる貿易省惨事・徐某氏(50代男性)の存在を挙げた。
韓氏もよく知るこの人物の裏の顔は、北朝鮮で破壊工作を担う偵察総局所属の大佐で、ラオスをはじめ東南アジアでの滞在歴が長い「ベテラン工作員」だという。
「この徐氏の息子とリ容疑者が親友であることもあり、リ容疑者のベトナム語の能力を買った徐氏が、彼をリクルートした可能性が高い」というのが韓氏の見立てだ。
リ容疑者は4歳の時からベトナムで暮らしており「ベトナム語の実力はおそらく北朝鮮でナンバーワン」(韓氏)。必要に応じて金正恩氏のベトナム語通訳を務める「一号通訳」として長く育成されてきた経緯がある。
冒頭で紹介したように、2015年1月と16年9月の北朝鮮外務省高官によるべトナム訪問の際には通訳を担当していることからも、その実力の一端がうかがえる。
外交団の訪問時には半年前から名簿を相手国に伝えなければならない。当時、ベトナム大使館で勤務していた韓氏は、名簿の中に本来ならば収監中であるはずのリ容疑者の名前を見つけ「大使館でちょっとした騒ぎになったことをよく覚えている」という。
冒頭で紹介したマレーシア当局の発表によると、リ容疑者は昨年12月に保衛省所属の別の男性と共にベトナムに入国し、実行犯の一人でベトナム国籍のドアン・ティ・フォン容疑者をリクルートしたとされる。
韓氏はこれについて「リ容疑者はとにかくベトナム語がうまく、幼いころからの知人がベトナム国内にたくさんいた。ふたりはかなり以前に知り合っていた可能性もある」と話した。
さらに、韓国の国家情報院が今回の金正男氏の殺害を保衛省の「仕事」と見ていることに対しても疑問を呈した。
「保衛省の仕事は諜報、工作、監視であり、暗殺は偵察当局の専門分野」というのが北朝鮮での常識だというのだ。より一歩踏み込んで「ベトナムの偵察総局が総指揮を執った可能性もある」とも指摘する。
外国人を使い、空港で白昼堂々、殺害におよぶ手口も「一見雑に見えるが、様々な要素をちりばめることで、誰のしわざか分からないよう目くらましをする高度な仕事だ」(韓氏)。
マレーシア警察は、北朝鮮国籍の容疑者ら3人が現在も北朝鮮大使館の中にかくまわれているとの認識を示しているが、事態は動く気配をなかなか見せない。
韓氏は今後の見通しについて「北朝鮮が事実上人質としている9人のマレーシア人と、容疑者ら3人を交換するかたちになるだろう」と語った。
高英起(コウ・ヨンギ)
1966年、大阪生まれの在日コリアン2世。北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。北朝鮮問題を中心にフリージャーナリストとして週刊誌などで取材活動を続けながら、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に 『脱北者が明かす北朝鮮』 、 『北朝鮮ポップスの世界』 (共著) 、 『金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』 、 『コチェビよ、脱北の河を渡れ ―中朝国境滞在記―』 など。