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過去には他にも政治犯収容所があったことは間違いない。12あるいはそれ以上あった模様である。時間の経過に伴って統合されてきた。一部の収容所は閉鎖され、残った収容者は、拡張された他の場所に移送された。
- 会寧(咸鏡北道)に近くにあった第22政治犯収容所は、1960年代から2012年半ばの閉鎖まで、国家安全保衛部が管轄していた。当局が閉鎖した理由は、中国国境に近いため脱走のおそれがあり、また収容所に関する情報が外界に漏れることを恐れたからだと考えられる。
2009年か2010年頃に閉鎖が開始される前の第22収容所には3万から5万人の収容者がいたとみられる。第22収容所の収容者が釈放されたという情報はない。調査委員会は不明の多数の収容者の消息を把握できていない。第22収容所の収容者がどうなったかにじては様々な意見がある。第22収容所の収容者は第14、15、16の収容所に分散収容されたという見解もある。また、他の収容所の衛星画像からは第22収容所からの全員の移送受け入れのための施設拡大が行われた形跡はないとしている。また、2009年と2010年に第22収容所から多量の食料が他に移送され、これにより多数の収容者が餓死したとの見方もある。
- 国家安全保衛部が管轄する第11政治犯収容所は咸鏡北道の冠帽峰の上部斜面にあった。当初は幹部クラスの収容者およびその家族が中心であった。1980年代終わりに、閉鎖されたらしい。この地域に金日成の別荘が建設されたと見られているからである。収容者たちは第16および22の収容所に分散された。