(b)北朝鮮からの脱出の様式とその隠れた理由
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委員会がみたところ、1980年代の終わりまで、北朝鮮を逃亡したとみられる人はほとんどいない。しばしば逃亡した人々は政治的理由のため、そうしたのであった。
1990年代には、国内の加速する飢えと飢饉のため、経済的失望と人権侵害から逃れるため、中国国境の不法横断が犯罪にもかかわらず、大衆現象となった。多くの絶望した市民が食糧と仕事を求めて、物の売り買いのため、北朝鮮に接する中国の村に住んでいる親戚から援助を得るため、国境を違法にわたった。彼らは飢饉の時期、国家統制の崩壊を利用した。
- キム・クヮンイル氏は、1990年代の大飢饉を生き延びるただ一つの方法は違法に中国に出たり、入ったりして、自分たちを養うため、中国から物を密輸したり、中国へ輸出したりすることであったと述べた。彼は他の人たちと同様、そうすることは違法であり、厳しく罰せられる危険があることは分かっていたが、政府が彼や彼の家族に食べ物を与えてくれない以上、国境をこえる以外選択肢はなかったと述べた。
- ある証人は飢え死にしそうで、親戚から援助をしてもらえないかと計画を立てて、国境を越えることを決断した。彼は大学で学問を修了したかったので、帰ってくる意志を持っていた。状況は金日成の死にともない、ひどくなった。彼の大学では状況は非常に酷く、学生はお互いに盗みをしあった。彼は秘密裏に国境地域へ旅をした。しかし、彼はつかまらず、幸運であった。もし、つかまっていたら、彼は拘留施設に送られ、そこでは「人間として扱われない」まま拘留される、と聞いた。本国へ送還される人々のための拘留施設でのそのような扱いの描写は委員会が受け取ったほかの証人と一致している。
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北朝鮮では1990年代に数十万の人々が餓死していたのにもかかわらず、当局は旅行禁止を解除しなかったし、市民が国境沿いの地域から中国へ行くことを許可しなかった。中国には、多くの人々が朝鮮系の親戚を有し、そこで生き延びるために仕事をみつけるたりすることができたであろう。1999年もしくは2000年には、状況がすでに改善していた。金正日は食糧と労働のためだけに中国へ行ったと示した人々は慈悲にて取り扱うべきだと明白に支持を発した。しかしながら、「慈悲」の比較的短期間の間でさえ、中国から強制的に送還された人を一貫して罰する慣行はけっして完全にはなくならなかった。
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さらに、2000年後半、大飢饉がある程度、潮を引いた後、再び、あらゆる「離反」に「非情な抑圧」を与えるよう、命令が下された。そして、国家は国境の統制をふたたび主張した。
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しかし、北朝鮮からの逃亡を抑圧すべく引き続き努力したり、ひどい暴力や厳しい罰を使って、承認されていない国境越えを妨げたりしているにもかかわらず、飢饉のあいだ起こった違法な国境越えの様式は2000年代まで続いた。金正恩が2009年に後継者として明白に表れ、多くの職務を、病気をわずらっている金正日から引き継いだ。国境を封鎖する強い押しがあったのだ。このため、中国への流出は減り、また、大韓民国へ行きついた北朝鮮の国民の数も減ったと証拠づけられている。
- キム・ユンファン氏は、中国と北朝鮮の国境地域に運営本部がある人道主義ネットワークで働いていたのだが、北朝鮮から逃亡した人の数は2009年にピークとなり、以降漸進的に減少していると委員会に報告した。金正恩が権力を握ってから、弾圧が増したと彼は感じていた。