第6回大会が開かれた1980年以降、北朝鮮の経済状況は徐々に下り坂に入り、90年代に入ってからは坂道を転げ落ち大飢饉を引き起こすまで悪化。この間、94年に故金日成主席の急逝によって最高指導者となった金正日総書記は、非常事態を乗り切るために、「先軍政治」を掲げ「党」よりも「軍」を重視。また、国防委員会を通じて政策を決定するなど、労働党の役割は低下していた。
しかし、これは軍部の肥大化と経済停滞という副作用を生み出す。こうした金正日氏の先軍政治に対し、北朝鮮民衆たちは怨嗟を込めて「権力を維持するために父親の成し遂げたことを台無しにした。先軍政治で軍は馬賊のようになった」と語っている。
晩年の金正日氏は、先軍政治を掲げながらも肥大化した軍部から朝鮮労働党への権力回帰を目論んでいたようだが、2011年に死去。後を継いだ金正恩第1書記も、この4年間で軍から党へ権力の重心を移してきたが、その過程では人民武力相を高射砲で公開処刑するなどかなり強引なやり方が目立つ。
それでも目立った反発の兆候がないことから、金正恩氏は軍部から労働党へ権力が移行されたというある程度の確信を持っているようだ。そのうえで自らの権力基盤が盤石であることを内外にアピールするため、党大会の開催を決断したと見られる。