国際的な人権団体アムネスティ・インターナショナルによると、全世界で公開処刑が行われているのはイラン、サウジアラビア、ソマリア、そして北朝鮮の4カ国だ。
北朝鮮では、大飢饉「苦難の行軍」で国全体が混乱に陥った1990年代に、各地で公開処刑が繰り返された。その理由は極めてシンプルだ。見せしめのためだ。衆人環視の中で犯罪者を残忍に殺害することで恐怖を与え、秩序の維持を図るという、「死刑には犯罪抑止効果がある」との考えに基づいた行為なのである。
(参考記事:謎に包まれた北朝鮮「公開処刑」の実態…元執行人が証言「死刑囚は鬼の形相で息絶えた」)もっとも最近では、国際社会からの人権問題に対する批判を意識してか、かつては公開で行っていた処刑を非公開で行う傾向にあった。金正恩党委員長は2016年、全国の司法機関に「群衆を集めて死刑を行う『群衆審判』『公開銃殺』を禁じる」との指示を下している。それ以降、公開処刑は影を潜めていたのだが、北朝鮮当局は最近になって再開させつつあるようだ。
デイリーNKの内部情報筋と米政府系のラジオ・フリー・アジア(RFA)は今年2月から3月にかけて、北朝鮮北部で公開処刑が複数回行われた事実を伝えている。
実際のところ、公開処刑は北朝鮮社会にどのような影響を与えてきたのか。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面韓国紙・朝鮮日報の東北アジア研究所が運営する北朝鮮専門のニュースサイト・NK朝鮮は2001年3月23日付で、北朝鮮国内で公開処刑を見たことのある脱北者たちの目撃談を伝えている。例えばキム・イノさん(33=当時)は、次のように証言している。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面1992年11月15日午前11時咸興(ハムン)市の沙浦(サポ)区域にあるヨンデ橋の下の空き地でチュ・スンナム(当時30歳)が公開処刑された。彼の公開処刑を知らせる公告が市内に貼り出され、これは後で韓国にまで伝えられた。チュ・スンナムは除隊軍人で、(朝鮮労働党の)党員であった。彼は子供の頃に両親が離婚したため、母親の実家で育った。除隊後にタバコの商売をしていた彼は、祖父に酒代を無心して声を荒げ、叱られて腹立ちまぎれに祖父を押したところ、祖父はその場で死亡してしまった。
公開処刑の日は天気が非常に寒かったのに、数千人もの人々が集まった。死にゆく人に対して、あまり同情しなかった。死に値することをしたんだと思った。ただ、「人も犬のように死ぬんだな」ということ考えた。
このような証言から伝わるのは、公開処刑が人々に恐怖心を与えると同時に、社会をすさませている様子だ。北朝鮮の独裁者は体制を維持すべく恐怖政治を行いながら、社会の生命力を徐々に失わせていたのである。