韓国紙・東亜日報は23日、昨年11月に軍事境界線上にある板門店の共同警備区域(JSA)で韓国に亡命した朝鮮人民軍(北朝鮮軍)の元兵士が、国家情報院と軍などの合同尋問班に対し、「北で犯罪を起こした。死亡に至る事件だった」と供述したと報じた。同紙はまた、この元兵士が「北朝鮮軍の少将クラス軍人の子弟と確認された」とも伝えた。
白昼、北朝鮮軍の追撃兵による銃撃を浴びながら、軍事境界線を駆け抜けたこの元兵士の行動は、相次ぐ北朝鮮国民の亡命事件の中でも近年まれに見る衝撃的なケースだった。また、事後には彼の腸から巨大な寄生虫が取り出される手術映像まで放映され、世論の関心を倍加させた。
(参考記事:必死の医療陣、巨大な寄生虫…亡命兵士「手術動画」が北朝鮮国民に与える衝撃)あれだけの危険を冒し、実際に瀕死の重傷を負いながら決行された亡命場面を監視カメラ映像で見ながら、「北朝鮮でさぞや切羽詰まった状況に追い込まれていたのではないか」と想像する向きは少なくなかったはずだ。それだけに、東亜日報の報道に接して「やっぱり……」と感じた人も少なくなかったと思われる。
だが、韓国当局はこの報道を否定している。
聯合ニュースは同日、情報当局関係者の話として「報道は確認されたものではない」「当事者がそうした供述をしたことはない」と伝えた。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面聯合によれば、元兵士は銃撃で受けたケガの治療のため、現在も入院している。この関係者は、週内に元兵士が退院できるかどうかが決まる予定で、退院すれば北朝鮮脱出住民(脱北者)の保護センターに移し、こうした報道の事実確認をする計画だと説明した。
仮に、元兵士が殺人などの重大犯罪に関わっていた場合には「非政治的犯罪者」と見なされ、脱北者の保護と定着支援に関する法による支援対象から外すことができると定められている。そうなると、元兵士の救命に全力を尽くしてきたこれまでの経緯から言って、韓国政府は彼の取り扱いに困ることにもなりかねない。
しかし現状では、東亜日報の報道は間違いである可能性が高いと筆者は考えている。何故なら、元兵士が殺人などの重大犯罪に関与していたならば、北朝鮮メディアが黙っているはずはないからだ。きっと、「稀代の殺人者」とか「薄汚いゴロツキ」などの言葉を使い、口をきわめて罵倒しているはずである。無実の人に対してもこうした非難を行う北朝鮮が、本物の犯罪者に対して遠慮するワケがない。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面もっとも、元兵士の亡命があまりにも衝撃的だったために、言及することすら極力避けたいと考えている可能性もないではない。とくに、手術場面の「寄生虫動画」が国内に流入して拡散するようなことになれば、国民の間に体制への強い反発が芽生える可能性もある。
それだけに、この事件を1日も早く風化させたいと考えていたとしても不思議ではなかろう。
いずれにしても、北朝鮮は韓流ドラマを見たりK‐POPを聞いたりするだけで重罪に問われる国である。殺人事件など起こしていなくとも、この元兵士が切羽詰まった状況に追い込まれていた可能性はいくらでもあるのだ。
高英起(コウ・ヨンギ)
1966年、大阪生まれの在日コリアン2世。北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。北朝鮮問題を中心にフリージャーナリストとして週刊誌などで取材活動を続けながら、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に 『脱北者が明かす北朝鮮』 、 『北朝鮮ポップスの世界』 (共著) 、 『金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』 、 『コチェビよ、脱北の河を渡れ ―中朝国境滞在記―』 など。