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来年出帆55周年を迎える朝鮮総連は、この間在日同胞の権益を代弁するよりは北朝鮮政府に追従するだけの「追随勢力」の役割を果たしてきたため、同胞たちの離脱に拍車がかかっている(企画?参照).

特に、北朝鮮の核問題や拉致問題、人権問題などのため日本国内の対北世論が極度に悪化し、現在事実上存廃の危機に瀕している。

朝鮮総連はこれまで、愛国事業などの財政事業をはじめとし、内部組職事業、朝鮮学校での民族教育などに力を注いできた。だが、こうした事業の実態は、金父子の偶像化と北朝鮮体制の宣伝、北朝鮮の海外工作支援及び連携、北朝鮮の海外機密費作りだった。

朝鮮総連の全盛期は北朝鮮から「教育援助費及び奨学金」を受けるようになった1950年代末から、在日同胞の帰国事業が始まった1960年代初頭までだ。その後しばらく現状維持と停滞の状態が続いたが、帰国事業が滞るようになった1970年代以降勢力が衰えた。

1990年代に入り、金日成が死亡して北朝鮮の経済難などが朝鮮総連の組職の弱体化に拍車をかけた。特に、2000年代以降は北朝鮮の核開発と拉致被害者問題がイシュー化され、日本国内では「公共の敵」とみなされるようになった。

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◆帰国事業で明らかになった北の実体…同胞離脱の始まり

朝鮮総連は勢いをふるっていた1960年代、在日同胞に「祖国に帰ろう」というスローガンを叫び帰国事業を本格的に推進した。

1959年から1984年まで実施された帰国事業で、在日同胞とその家族9万3千人余りが北朝鮮に移住した。当時、日本の首相は鳩山由紀夫首相の祖父である鳩山一郎氏だった。鳩山元首相は帰国事業への協力を約束し、1959年に岸内閣が赤庶嚶総ロ委員会に仲介を依頼して、帰国事業は順調に推進された。

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当時朝鮮総連は、「地上の楽園への人道的航路」というスローガンを掲げて帰国運動を進めた。朝鮮総連は帰国運動を通じて、日本で貧しい生活を送っていた在日同胞に対して、「北朝鮮に行けば何でもできる」といういわゆる「地上の楽園論」を宣伝した。

だが、帰国者たちを待っていたのは貧困と抑圧だった。帰国事業で北朝鮮に渡ったが、脱北して日本に居住している脱北帰国者が現在170名余りいる。

こうした脱北者たちによって北朝鮮の実体が明らかにされるようになり、朝鮮総連の帰国事業は虚関だったということが海外同胞たちに伝わった。

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北送された後戻って来た人たちも、当初は北朝鮮にいる家族の安全のために、北朝鮮の実態について聞かれても口を閉ざさなければならなかった。また当時、同胞社会に対する朝鮮総連の影響力のため、帰国事業を批判することも難しかった。だが、北朝鮮の実態が外の世界に知られるようになり、最近は状況が変わってきている。

昨年、1963年に北送されたが37年経って脱北した在日同胞2世の高政美さんが、朝鮮総連の帰国事業の実態を話して損害賠償請求訴訟を起こした。

また、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」をはじめとし、「拉致被害者家族会」、「拉致被害者を救う会」、「難民救援基金」、「NO FENCE」、「特定失踪者問題調査会」など日本のNGOが、帰国事業を推進した朝鮮総連を糾弾する運動を続けている。

朴斗鎮前朝鮮大学教授は、「愛国運動という名分の下に始まった帰国事業の実体は、韓国よりも体制が優越しているということを誇示しようとする対南戦略の次元で同胞たちを利用したものだった」と述べ、「帰国事業は在日同胞を金日成・金正日独裁の支配下に置くという意図で推進された」と明らかにした。

◆‘母国訪問事業’で‘韓国は遅れている’という朝鮮総連の宣伝が虚偽だったことが明らかに


朝鮮総連が帰国事業を推進していた頃、韓国政府は朝鮮総連系の在日同胞の母国訪問事業を実施した。

1975年に在日本大韓民国民団は、朝鮮総連系の同胞が旧盆に韓国を訪問してお墓参りができるように手配した。当時この事業に対して、朝鮮総連から離脱したり不満を持っていた海外同胞らが大きな反応を見せた。

解放後65万人以上いた在日同胞の95%以上が韓国出身だった。30余年ぶりに母国を訪問した海外同胞たちが、親兄弟と再会する感動的な場面が日本のメディアによって報道され、事業は勢いに乗った。

民団の機関紙「民団新聞」は母国訪問団事業が始まった年から2005年まで、朝鮮総連傘下の在日同胞5万570人が韓国を訪問したと明らかにしている。

母国を訪問して帰って来た海外同胞たちによって、朝鮮総連がそれまで宣伝してきた遅れた韓国というイメージは嘘だったことが明らかになった。朝鮮総連の幹部や商工人の中にもこっそりと韓国を訪問する人たちがいた。帰国事業の副作用が明らかになり、韓国母国訪問事業の人気が高まったため、事実上朝鮮総連が主導していた在日同胞社会に変化の波が押し寄せた。

当時、母国訪問事業が大きな反響を呼ぶと、金日成は朝鮮総連の組職を強化するために特別な指示を下した。朝鮮総連は中央と地方の組職を再改変して、対南事業を行いやすいように、70年代末までに優秀な人材を組職に入れることを最優先課題にした。

80年代に入り、金日成は「愛国事業革新」という指針を下逹した。そのため、朝鮮総連の中央幹部たちは、朝鮮総連系の在日同胞が組職から離脱することを防ごうと必死になったが、南に傾く世論を引き戻すことは容易ではなかった。

匿名を求めた朝鮮総連幹部出身のA氏はデイリーNKとの通話で、「母国訪問運動が実施される前は、『韓国はアメリカの植民地であり、多くの国民が生き地獄で生活している』と朝鮮総連は宣伝した」と述べ、「だが母国を訪問して帰って来た同胞たちは、韓国の経済に驚き、その事実は同胞の間に急速に広まった」と語った。

A氏は「帰国事業によって北朝鮮の正体が明らかになり、朝鮮(北朝鮮)国籍の同胞で韓国国籍に変える人が増えたが、母国訪問事業はこうした現象に拍車をかけた」と付け足した。

◆朝鮮総連が献金を強要して高まった海外同胞の恨み声

朝鮮総連は長期間にわたり、愛国事業に心血を注いできた。愛国事業とは朝鮮総連の北朝鮮に対する経済支援活動のことである。愛国という名目で実施されたが、実際は反強制的に同胞のお金を強奪することだった。


代表的なものに、北朝鮮を支援するための献金や募金、物資を送る運動がある。

また、愛国事業をスムーズに行うために、朝鮮総連系の同胞の離脱防止及び組職拡大運動も推進された。だが、愛国事業が反強制的に行われたため、事業は同胞の大きな恨みを買うことになった。

朝鮮総連は3年ごとに開かれる全体大会などを通じて、愛国事業を組職全体の課業として掲げ、盛り上げるよう督励してきた。朝鮮総連は忠誠献金や贈り物を朝鮮総連系の商工人と同胞に出させるために組職どうし競争させ、忠誠献金運動を展開したり、末端組織である分会組職を通じて朝鮮総連系の同胞の家庭を訪問して強制的に募金を集めた。

朝鮮総連の愛国事業は1980年代以後多様な活動が実施され、献金だけではなく工場やプラントから生活品に至るまで、様々な物資が支援された。同時に贈り物献納運動も実施され、朝鮮総連系の商工人の投資の誘致が推進されて生産施設が寄託され、金日成・金正日個人に高級乗用車や最新の電子機器、貴金属まで送られた。

朝鮮総連の愛国事業で1994年までに毎年6〜8億ドルが北朝鮮に送金された。これが北朝鮮の主要な外貨獲得手段だった。しかし、日本の経済不況の影響を受けて経営困難に陥る朝鮮総連系の企業や業者が現れるようになり、朝鮮総連系の金融機関も次々と破たんし、愛国事業は急速に縮小した。

朝鮮総連の半強制的な献金運動などのため、同胞の恨み声も高まり、組職を離脱する人が現れ、何よりも北朝鮮の現実が明らかになってきたことにより、愛国事業の名分も失われたのだった。現在、愛国事業はほとんど実施されていない。

特に朝鮮総連は、日本政府から全方向的な圧力を受けているため、それまで愛国事業の名目で行ってきた献金と物資を送る運動も中断している。

◆“北との合弁事業, 強制的献金も同様”

愛国事業が朝鮮総連系の同胞を中心に行われた事業だったとしたら、「合弁事業」は北朝鮮が朝鮮総連系の企業を対象に行った事業だったといえる。合弁事業のことを金日成は「愛国心の発露」と言い、企業が積極的に事業に参加するよう促した。

この事業に参加した企業は、北朝鮮の非経済的なやり方の影響や不況のあおりを受けて、大きく失敗することになる。合弁事業が失敗したため、朝鮮総連系の商工人たちは北朝鮮との事業をはばかるようになり、それが朝鮮総連の権威に悪影響を及ぼすことにもなった。

祖国との事業に野心を燃やしたが、北朝鮮が市場経済を理解せず、投資環境も整っていなかったため、次々と失敗する朝鮮総連系の企業を見ながら、商工人たちは北朝鮮の経済環境について悟るようになった。

1980年代以後、金日成は北朝鮮の経済の沈滞を克服するために外国企業を北朝鮮に誘致しようとして、「合弁法」を制定して「合弁事業」を展開した。だが、閉鎖された北朝鮮社会への投資がはばかられて事業が思わしくなくなると、北朝鮮は朝鮮総連系の企業を誘致するための事業を積極的に推進した。

だが80年代半ばに入ると、朝鮮総連の主要な活動の1つだった合弁事業も北朝鮮のインフラの未整備、不安定なエネルギー供給、契約不履行などのため失敗した。特に、北朝鮮政府の度が外れた干渉と市場経済に対する理解のなさのため、朝鮮総連系の企業は損をする一方だった。

特に、90年代に北朝鮮の核問題によって朝鮮半島に緊張が走り、朝鮮総連系の企業の対北投資心理が大きく萎縮した点も合弁事業の失敗につながった。

北朝鮮で合弁法が制定された1984年から1995年までに設立された朝鮮総連系の対北合弁企業は131社だったが、今も正常に稼動している企業は朝鮮合弁銀行、モランボン合弁会社、キム・マニュ病院など10企業に過ぎないと言われている。

合弁事業に参加して失敗した経験がある在日同胞のキム・ソンE(仮名)氏はデイリーNKとの通話で、「合弁事業は経済的な原理が優先されたのではなく、北朝鮮に対する愛国心と忠誠心だけを刺激して事業を起こしたのが問題」と述べ、「初期には成果が見られたが、時間が経つにつれ北朝鮮の過度な干渉と北朝鮮の経済事情の悪化などから事業が困難になった」と明らかにした。

キム氏は特に、「当時、朝鮮総連系の商工人には、経済的利益よりは北朝鮮内の家族や親戚の地位の向上などを考慮した部分があり、投資というよりは一種の愛国事業、すなわち強制的『献金』のように考える人もいた」と付け足した。(続く)