農村支援戦闘は文字通り労働者、事務員、学生、軍人、老若男女を問わず、農作業を支援することだ。
もちろん、農場の主人である農場員たちがいるにはいるが、立派な農作業の機械がない朝鮮の現実では、人力ですべての農作業をするには人手不足で、時期を逃すことが多い。
朝鮮では農村支援活動は1年中常に行われている。外国人は朝鮮の‘農村支援活動’と、‘農村支援戦闘’を区別することができないようだ。‘活動’は1年中、始終日常的に行われる事業で、‘戦闘’は春と秋に‘さじを持つことができる人はすべて農村に’ 追い出される国家の集中事業だ。
‘戦闘’の時は、所属単位の出張証明書がなければ、他の地方に旅行することができないし、市場に行って品物を買ったり売ることもできない。
家の便所に鍵をかけなければならない理由
まず、農村支援活動について説明しよう。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面農村の1年は、まず冬季は肥やしの生産に集中する。1月1日〜2日の祝日を過ごし、1月3日から全国のすべての工場、企業所、軍部隊では金正日に忠誠を誓う‘忠誠の宣誓集会’が終わるやいなや、肥やし生産を開始する。
平壌でも地方でも、都市も農村も分け隔てなく、同時に始まる。肥やしの量は企業所、学校、人民班など各単位ごとに決まる。労働者の場合、自分が所属する企業所にも肥やしを捧げなければならないし、人民班で言われる世帯別の定量をまた捧げなければならない。
肥やしの生産も競争を組織して、差し出す肥やしの量によって評価事業を行うが、最下位の単位には批判と制裁が加えられるから、道に落ちている犬の糞一つも貴重になる。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面農村地域や小都市の外郭にある世帯にとっては、自分の家の便所にたまった人糞もかなり値打ちがあるものになる。アパートが農村地域にある家は、自宅の便所にたまった人糞を肥やしとして使うため、家ごとに人糞を集めておく。朝鮮には‘人糞泥棒’もいる。
集めておいた人糞は、夏季の野菜農業では、その人糞を土と交ぜて乾かした後、肥料の代わりに使ったり、豚のえさとして使うから、甚だしくは、人糞を盗まれないように自宅の便所に鍵をかける人もたまにいる。
しかし、家の便所に鍵までかけて集めておいた人糞だけでは、差し出さなければならない責任の量を満たすことができない。牛や豚を飼っている家も事情はまったく同じだ。そのため、真冬に凍りついた地面を掘って泥炭を掘り出したり、おがくずに小便をかけて堆肥を作ったりもする。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面たいてい、農村地方では1世帯あたり1年で約1トンの堆肥を差し出さなければならない。結局、1月の初めから2月16日の金正日の誕生日まで、肥やしの生産に全力を傾けなければならない。道端の畑では企業所別、単位別に肥やしの山を作って、競争をさせるのが冬の農村の風景だ。
人糞をもらって歩く平壌市民
平壌をはじめとする大都市でも、堆肥生産戦闘は行われる。平壌では1月3日の‘忠誠の宣誓集会’が終わってから、‘堆肥生産戦闘’と、‘火力発電所支援戦闘’が同時に始まる。平壌市民たちは肥やしを背負って、平壌市周辺の農場に行く仕事と、指定された日に平壌の火力発電所(平壌市ピョンチョン区域)に行って、発電所の労働者たちを手伝って石炭を運ぶ仕事を同時に行わなければならない。
‘火力発電所支援戦闘’は自分の体が行けばできるが、‘堆肥生産戦闘’は平壌市民にとって大きな負担となる。 統一通りや光復通り、特に中区域の高層アパートに住む人々は、トンデウォン区域などの平屋が多い所に住む知り合いや知人の助けを借りなければならない。菜園がないトンデウォン区域の人にとって、便所に人糞をためるのは厄介なことだから、人糞を土と交ぜて、やって来る人たちにあげもする。
‘堆肥生産戦闘’と関連して、朝鮮民主女性同盟組職が一番過激に家頭女性たちをいじめる。家頭女性とは、職場に出勤したり家で生活をしながら、女性同盟の組職活動をする女性たちのことだ。 割り当てられた肥やしを差し出すことができなかった家頭女性たちには、住民たちが集めた肥やしを農村に移す課業が与えられる。
農村に肥やしを送る時、バスや無軌道電車を利用しないため、単位別に列をなして農村まで車を引いて行かなければならないが、割当量を満たすことができなかった家頭女性たちが動員される。一日中車を引いて行くのも大変だが、その横でかねを打ったり赤い旗を振りながら農村まで行かなければならない女性たちも辛いのは同様だ。
水一杯もらって飲むのも楽ではない
春には稲の苗床作りやトウモロコシの栄養団地作り、田植えなどが行われる。特に日曜日には無条件昼食を持って農村支援に出なければならない。決められた農場の作業班に到着すれば、現地の農場の農民の1人が‘指導農民’としてつく。その農民の指示を受けてその日の課題を終えて家に帰るのである。
平壌市民は、夜明けに列車に乗って平安南道一帯の農村に出かけて、1日中働いて夜戻って来ることもある。家頭女性たちは普通3日に1度ずつ農村支援に動員される。農村を支援するという名目で出かけるものの、実際は水一杯飲むのもただではない。農村の人が薄情なのではなく、実際に農民の生活の境遇がそれほどみじめだからだ。
人民学校の生徒や中学校1〜3年生は、たいてい‘田植え’に動員される。また、トウモロコシの栄養団地を移すのも、幼い生徒たちの仕事なので、トウモロコシの栄養団地を‘学生団地’と呼んだりもする。農場に出れば各界各層から支援に出た人々がすべて集まるが、現地の農場の農民たちはこの人たちの班を1つずつ引き受けて、農作業を指導する。
夏には春の田植え戦闘の時よりも農村支援活動に出る回数が減る。女性同盟の組職に所属した家頭女性たちはよく出る方だが、学生や労働者、事務員は主に日曜日に出る。田に入って雑草を抜く草取りをするのが基本で、草刈り仕事も多い。草を刈って積んでおいて、翌年に肥やしとして使うからだ。
この時、中学生たちはとうもろこし畑やジャガイモ畑の草取りに動員されて、小学生たちは‘かぶとむし捕り’などの虫捕りに動員される。農薬が不足して虫がついたら、幼い生徒たちの手を利用するのだ。
秋の収穫も全国で一斉に取り掛かる戦闘だ。まず、とうもろこしを切って穂を取って、とうもろこしを集めておくとうもろこし収獲を終わらせてから、稲を刈る。この時も軍人や学生、労働者はいうまでもなく、全国民がすべて動員される。小中学生は、落ち穂拾いの作業に動員される。
農村支援戦闘は全国民にとって悪夢
だいたいこうしたことが、朝鮮でいう‘農村支援活動’だ。朝鮮の人にとっては、毎年全国、全社会で行われる平凡な活動だ。朝鮮の人たちは、こうした農村支援活動をそれほど大変だと感じない。
夜明けに家を出て集合して、作業班を決めて該当の作業場所に着いたら午前8時30分になる。午後1時まで仕事をして、1時間昼休みをとって午後5〜6時に作業時間が終わるため、労働に鍛えられた朝鮮の人たちにとっては大きな負担と感じられない。
率直に言って、お腹の出た幹部たちにとっても一定の運動になって、さわやかな農村の風に当たりながら、作業班長や分所長と座ってタバコを一服しながらぶらぶらすることができるから、農村支援活動に不満を持つ理由はないだろう。
それにもかかわらず朝鮮の人民たちは‘農村支援’という言葉を聞きさえすれば、身の毛がよだつ。それは春と秋に行われる‘農村支援戦闘’の辛い記憶のせいだ。朝鮮の人なら中学校4年生から6年生まで、大学生の場合、大学時代の全期間、‘農村支援戦闘’の経験をしている。朝鮮で軍隊に行かなかった人はいても、‘農村支援戦闘’に行かなかった人は極めて珍しい。その悪夢のような記憶は人民学校から始まる。
小学校の児童も虫取りに動員
国家で‘農村支援戦闘’が宣布されれば、小学校の児童も動員される。もちろん、都市に住む子どもたちは、農村の子どもたちよりましだ。しかし、平壌市では集団体操をはじめとし、各種の国家の行事や訓練に動員されなければならないから、農村地域の生徒より必ずしもよいとはいえない。
地方の都市の小学校の児童は、授業を終えて周辺の農場に行って田植えを助ける。ワラビのような手で苗を1本ずつ抜かなければならない。1つの苗床に1つの学級が集まって、担任の教員と指導農民の指導の下、作業をする。私が小学生だった時、担任の先生が“苗を一つを切ったら、罰金として5チョン(0.05ウォン)ずつ弁償してもらう”とこけおどしで言ったことが今でも忘れられない。
私と友逹は、苗が切れないようにするために、玉の汗を流した。私たちが苗を抜いて土をはたいたら、指導農民と教員たちが束にして縛った。
小学校の児童は、田畑に出て働くこと以外に芸術公演を準備して、休み時間に農場員たちや支援に来た人たちの前で公演をしなければならなかった。生徒たちには休み時間もあまり保障されていなかった。
虫取りも、小学校の児童の重要な課業の1つだ。毛虫やかぶと虫、イナゴなどを捕る仕事だったが、女の子たちは気持ち悪くて恐ろしいとべそをかきながらも、仕方なく虫の筒を持って作業をした。虫取りが終われば、誰がたくさん取って誰が少ないのか総括をするが、最下位はいつも担任の教員の指摘を受ける。
朝鮮では1番に与えられる特恵よりも、びりに加えられる圧力の方が大きい。他の国の児童は、1番になるために努力することを学ぶが、朝鮮の児童はビリになることを逃れるために空気を読むことから学ぶ。びりの友逹の自己批判を見ながら、密かにそうした思想が身につくようだ。
私が小学生だった頃、最高の悪夢は断然うじ捕りだった。真夏にふつふつと沸き立つ農村の便所でうじを木の棒で捕るのは、恐ろしくて気持ち悪くて、汗が流れた。うじさえ見れば泣いていた従姉妹は、叔父があらかじめうじを数匹ビニールに包んで農場に出る前に渡してやったりもした。うじも割当量があったから仕方なかった。
秋の農村支援戦闘で、小学校の児童は、穂を拾う作業に出なければならない。稲刈りを終えた田に入って稲穂を拾って、担当の教員に渡すのだ。水がまだ抜けていない田に入り、幼い生徒たちが倒れて服を汚してしまうこともよくあった。薄情な教員たちは、総括をする時に幼い生徒たちのズボンのポケットを探る。
もちろん、幼い子どもたちを急き立てて割当量を満たさなければならない教員の立場も気の毒だが、稲数粒をズボンのポケットに隠したという理由で、大きな過ちを犯したと、目もとに涙を浮かべて頭を下げなければならなかった私の友達に何の罪があったというのか。その時は‘運がないやつだ’と思ったが、今思い出しても頭に来て、心臓が裂けるようだ。