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平壌訪問三日目、金日成の銅像を参拜することになっていた。私と相談もなしに、勝手にかなり大きな花かごを作ってきて、お金をくれとせびってきた。

凱旋門の前で解説の人と並んで記念写真を撮った。フランスのパリの凱旋門より少し高いと言う。

凱旋門は金日成主席が祖国光復(1945年)を成して凱旋した業績を記念して、牡丹峰岸に1982年4月14日に立てた。解説の人は凱旋門が高さ60m、幅 52.5mの3層の石造建物で、1層目には高さ27m、幅18mのアーチ型門があって、1層目と2層目はバルコニー式の境界を成し、2、3層目には逓減式になった屋根があると熱心に説明をした。

‘それでこそ、そうしてこそ外貨が儲かる’

昼は大同江の川辺にある有名な ‘玉流館’の冷麺を食べに行った。食堂には人民たちが集まっていた。食堂の席がなく、門の前にうずくまって座って手順番を待っていたが、ほとんどの人が煙草をくわえていた。

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村別で団体で来たと言うが、どうしてそのようにして来なければならないか後で分かった。その日が冷麺食堂が開業する日だと言った。そのため、1週間営業をしないという。

特別室に案内された我々一行に、無条件、盆に盛られた麺が出た。本当に辛くて、ふーふーとふいて辛い味を冷やさなければならなかった。もう一杯食べた人もいた。昔の玉流館の味がすると言うが、私は昔の冷麺を試食していなかったため、よく分からなかった。

私はソウルで食べる平壌冷麺の味がずっとさっぱりしていると感じた。冷麺の価格は人民が支払う値段より10倍程高かった。 ‘それでこそ、そうしてこそ外貨が儲かる’ と考えて、寛大に理解することにした。

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玉流館という名前は随分昔からあったという。悠悠と流れる大同江を垣根とし、1960年代に大規模に建設して開業した、北朝鮮で最も規模が大きい食堂だ。北朝鮮を訪問する外国の主要人物や韓国から訪問する人が一度は立ちよる所だ。食堂で窓の外を眺めれば、広い大同江が眩しく美しかった。

夕食後、北朝鮮出身の人たちは、どこかで何かのシンポジウムがあると言ってでかけて行った。何かの工作(?)や宣伝教育をさせるのかと考えた。私は対北事業国zと関連し、特別に頼んで水産業専門の’デャ淘豪ヌ第3商事(遠洋漁業担当)’の社長に、ホテルの面談室で会った。平壌に旅に出る時、旅行以外の目的があった。

平壌観光の中では始終感嘆詞を使った。しかし、ホテルの部屋に入って来れば、昼の間に積もり積もった批判的な言葉が自然に出てきた。

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“自分らは最高であるかのように誇るが、人民たちはそれを作るためにどれほど苦しかったか、 XXX達め !”

ひとりの部屋だから安心して批判して悪口を言いながら、自分をなだめた。ところで、ある人が “エレベーターと部屋の中でも、言葉には気をつけなければならない”と忠告をした。このように忙しい日程を送っている最中、2月になり、北京に出た。

イム・スギョンの訪北で平壌市内に人だかり

平壌観光の間、私たち一行をきちんと接待しようと、それなりに努力する姿を見たが、食膳はお粗末で、主食であるご飯も不足していた。副食はご飯に合わせて惜しんで食べ、キムチは名前だけキムチだが、私たちのいうキムチは初めから見ることもできなかった。
そのため、北京に出た日はキムチが自由に食べることができる食堂を尋ねたが、当時、中国には韓国食堂がほとんどなかった。香港に到着して、おいしい韓国料理店が多く、副食をたらふく食べることができた。当時はソウル~中国間の直航がなかったため、平壌~北京~香港~ソウルと、アジアを一回りして帰って来た。

その年の6月、平壌に再び行った時、イム・スギョンも平壌へ来ていた。イム・スギョンは第13回世界青年学生祝典に参加するために、韓国政府には秘密のまま、日本とベルリンを経て、1989年6月30日に、平壌の順安飛行場に到着した。

このしらせが伝わると、平壌市民たちがイム・スギョンを歓迎するために空港で人だかりを作った。のどかな天気だったが、夕立ちが少し降った後、高麗ホテルの周りの道では、交通統制が布かれるほどの大騷ぎが起こった。