新年に入り、各新聞に金正日政権の未来に関する特集記事が多く掲載されている。
‘金正日政権交替以後’、’北朝鮮の体制崩壊の可能性’、’軍部クーデターの可能性’等々、北朝鮮の不安な未来に関する内容が大部分である。その中には、北朝鮮の現実を反映した比較的正確な分析もあり、事実とは言えない展望もある。しかし、こうした内容が新年の特集記事として登場したという事実自体が、金正日政権が非常に不安に見えるという点を反映している。
90年代中盤の食糧難の時期にも、北朝鮮体制の崩壊の可能性が頭をもたげた事がある。しかし、現実には崩壊はしなかった。 このため、’金日成’という絶対的なカリスマの空白状態でも、体制が崩壊しなかったために、北朝鮮の社会は特異な体制耐久力があるという意見も出た。今でも一部では’北朝鮮特有の耐久力’を強調し、体制崩壊の可能性を一蹴する主張もある。
90年代中盤の北朝鮮早期崩壊論は、過ちであると分析されたのだった。外部の分析は主に金日成の死亡(94年)に焦点を合わせた。要約すれば、絶対権力者、金日成が死亡したから北朝鮮も終わりを告げるというものであった。しかし、これは北朝鮮の内部事情がよく分からないということに起因していた。当時、金正日は金日成の後継者になってから、既に20年程経っており、80年代中盤から金日成に代わり、実際に権力を行使して10年程経過した時点であった。また、91年12月に、人民軍最高司令官に就任し、軍部も掌握した後であった。統治権自体には決定的な漏水現象を期待しにくい状況であった。
金正日はこの時期、外部とは完全にかんぬきをかけた状態で、些細な犯罪も公開処刑するなど、極度の恐怖政治と監視、統制で体制の漏水現象を阻んだ。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面また、北朝鮮を取り囲んだ外部環境も早期崩壊を阻んでくれた。 94年には米・北ジュネーブ合意に成功し、アメリカのクリントン行政府は対北包容政策基調を維持した。また、何よりも背後にある中国が北朝鮮の崩壊を望んでいなかった。
北、10年前と今日、何が変わったか
しかし、10年が経った今、北朝鮮の対内外状況は大きく変わった。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面何より国際社会と金正日政権が対立している。ミサイル打ち上げ、核実験など、繰り返された軍事冒険主義路線で、アメリカと国連の対北制裁が過去より一層強化された。それでも金正日政権がこのような状況を全面的に打開しながら核をあきらめて、改革開放に出る可能性は低いであろう。すなわち、軍を中心とした内部結束のためにも、先軍路線をあきらめにくいということである。
また、中国が過去と違い、これ以上北朝鮮に友好的ではないという事実がある。もちろん、中国の対北政策は相変らず’現状維持’といえるが、金正日政権が更に強硬先軍路線を進む場合、中国も対北制裁を拒否するのは困難である。中国がいつ頃対北制裁に積極的に出るかは予想しづらいが、もし北朝鮮が追加核実験をするなど、状況を一層悪化させる場合、中国も国際社会の対北制裁世論を無視し続けることは難しいであろう。
北朝鮮の内部事情もかなり変わった。90年代中盤に、大量の北朝鮮脱出の事態が発生した後、10年間、外部情報が流入し続け、自発的な市場が拡がった。商売をして暮らす人が大幅に増えたのだ。商売はひとりひとりの商取り引き行為である。商売をして暮らす人が増えたということは、北朝鮮体制の根幹である’集団動員体制’にひびが入っているということを意味する。 国家生産力の自力での回復が不可能な状況で、商売が増える現象は動員体制下では毒薬のようなものである。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面また、今は北朝鮮の住民の大多数が中国と韓国の事情をよく分かっている。住民の意識がかなり変わったのだ。金正日は金日成に匹敵するカリスマを持っていない。金正日と党の権威も随分墜落した。 住民数人が集まれば、親しい人の間では金正日に対する陰口が行き交い、党と国家機関の腐敗と無煤A現実をなげく話しが出る。
このような内外的環境と条件を勘案すると、北朝鮮社会は既に解体の道に立ち入っており、その時期と経路を正確に予測することは困難だが、金正日政権の崩壊が私たちに迫ってくる厳然とした現実となることは明らかだ。
しかし、この10年間、私たちの対北政策は南北間平和共存状態を守り、太陽政策で北朝鮮の改革開放を誘導するというものだった。
しかし、このような政策は金正日政権の先軍路線の弱化に失敗し、ひいては北朝鮮の核実験で南北間平和共存維持のための軍事的対称構造を決定的に崩す結果をもたらした。 もちろん、北朝鮮の核実験が、韓国の誤った対北政策によって引き起こされたのかという反論もあり得るが、誰かの是非を問うのが重要なことではなく、対北政策の失敗が厳然とした現実によって立証されたという事実が重要である。現実に、厳然として立証された事実を否認したり、’アメリカ責任論’などに転嫁する行為は、ひとりひとりの卑怯さも離れて、国家的不幸をもたらすようになる。
したがって今後すべきことは、
1)金正日政権の本質を正確に診断して、 2)この間の対北政策の何が間違っていたのかを具体的に把握した後
3)実現可能かつ正しい対北政策の方針をたて、 4)その方針で新しい対北政策を遂行する戦略戦術を立てるのに集中する必要がある。
太陽政策, 対北診断誤診が禍根
現在、政府の与党や学界の一部には’太陽政策有効論’が相変らず残っているが、既に太陽政策は対北戦略であるというよりも、国内政治用の掛け声に転落した感がある。
したがって、今年、国内政治の動向が大きく変わる場合、太陽政策は廃棄されるか、形体を維持しても内容の大幅修正は不可避である。これは太陽政策が対北政策として失敗したということになる。
太陽政策は当初、北朝鮮の閉鎖されたかんぬきを解き、改革開放に誘導しようという目的があった。金大中政府の時期に太陽政策立案者たちは、”北朝鮮は生存するために改革開放に出ないはずがないため、私たちが助ければ良い”と判断した。この判断は結局、間違いであるということが立証された。
金正日政権は改革開放で、国家運営の大きな方向を変えることなく、太陽政策を逆利用しながら、先軍路線を一層強化して、いわゆる’我々の社会主義’を守る方向に出た。太陽政策の予想や期待に反する行動をとったのである。核実験はそのような先軍路線の頂点で爆発した。
太陽政策失敗の根本原因は、明らかである。金正日という相手を読み違えたのだ。つまり、相手を正確に理解することに失敗したのである。’北朝鮮が改革開放に出れば良いだろう’という希望から、’改革開放に出ないはずがない’と考え、判断を誤ったことが根本的な過ちだった。
意思の医療行為に例えれば、明白な誤診だった。病気に対する初期の診断を最初に間違ったから、治療の方法も成功するわけがないのである。その’誤診’の結果、返って韓米同盟破壊と精神的内戦レベルでの南南葛藤をもたらした。太陽政策によって私たちの内傷だけが深くなったのだ。
したがって、今、私たちの前に置かれている金正日政権の’根本問題’を、再び診断しなければならない。その‘根本問題’はさまざまであるが、おおよそ3種にまとめることができる。
第1番目、 金正日政権は果して核をあきらめることができるか?
第2番目、金正日政権は果して改革開放に出ることができるか?
第3番目、金正日政権が改革開放しなければ私たちはどうすれば良いか?
実はこの3種類の問いは、既に10年前から繰返されてきたものであり、この問いをめぐって北の核が交渉用なのか保有用なのか、北朝鮮が変わったか変わらなかったか、太陽政策が有効なのかそうでないのか、はなはだしくは’それでは、戦争しようというのなのか?’と、全く無謀な議論まで呼び起こした。
この3種類はまた、2007年末の大統領選挙まで、いわゆる’戦争勢力なのか、平和勢力なのか’と、純然とした政治宣伝用の象徴操作に変質し、有権者たちを惑わす可能性がある。
したがってこの3種類の根本的な問いに対する正確な認識が非常に重要であり、その認識に基づいた上で、対北戦略の方向が決まらなければならないであろう。
1)金正日政権は果して核をあきらめることができるか?
この問いに対しては10年以上にわたる、北朝鮮政権の対外戦略パターンをよく見れば答えが出る。
90年代初めの第1次北核事態から、金正日政権の生存方式サイクルは、核開発、ミサイル打ち上げなどを通じた、朝鮮半島周辺の軍事的緊張誘発→緊張誘発後の交渉突入→周辺国経済援助→更なる緊張誘発→交渉突入 →周辺国経済援助という循環を見せて来た。
その間の南北関係もこの枠組みの中で、北朝鮮が南北対話に出る条件で、米、肥料などが支援されてきた。長官級会談に臨むという条件で、また6カ国協議に復帰するという条件で、韓国と中国が支援してきたのである。これが金正日の政権維持と生存方法だった。これは、核兵器のような軍事的緊張誘発手段が消えれば、金正日は政権を維持しづらくなるということである。 すなわち、核があれば生存が可能だという話である。金正日としては、独裁政権維持が自分の’すべて’であるのに、核をあきらめれば’すべて’を無くしてしまうことと同じである。したがって、金正日に核をあきらめなさいということは、’君が持っているすべてのものをあきらめなさい’というのと同じである。したがって、金正日が核をあきらめる’事態’は来ないと見るのが正確である。ただ、金正日が中国と韓国を適切に利用するという意図で、核をあきらめることもできるという’ジェスチャー’を見せる可能性はあるだろう。
国連とアメリカの対北制裁を先に解除すれば、核実験場を閉鎖する可能性がある。軽水炉を与えれば、核開発活動を現状態で凍結する可能性がある。アメリカが対北敵視政策をあきらめれば、朝鮮半島の非核化は可能だという発言等々がそうした例である。
しかし、既に完成された核兵器や核プログラムを放棄(CVID)するというのは想像し難い。金正日は今年、数種類の’ジェスチャー’を見せ、韓国内の大統領選挙政局に影響を及ぼそうとしたり、中国の支援を得ようとすると予想される。
しかし、金正日の戦略パターンを経験した米、日が、対北政策を修正しない可能性が高いため、金正日の意図どおり進むのも困難である。したがって、北朝鮮の核問題を巡って、2007年には北朝鮮の追加核実験など、むしろ緊張が一層高まる可能性がある。
2)金正日政権は果して改革開放に乗り出すことができるか?
この問いに対しても長い説明は必要ではない。北朝鮮政権が中国式や東欧式の改革開放に乗り出す意味があったのならば、もう出たはずである。
今まで北朝鮮政権が改革開放に乗り出すことができる良い機会が少なくとも3度はあった。最初は70年代末、中国の改革開放始動時期に、2番目は90年の東欧体制転換と94年の金日成死亡の後に、3番目は2000年から2002年に周辺国との関係正常化を模索した時期にである。しかし、北朝鮮政権は3回とも全て拒否した。
78年に唐小平が改革開放を始めると、金正日は中国を’修正主義’として激烈に責めた。甚だしくは、97年1月に唐小平が死亡した際、金正日は平壌の中国大使館に弔文にさえ行かなかった。2000年以後、金正日が中国を訪問したのは、ひたすら経済支援及び対米関係で中国を利用しようという思惑からであった。
また、90年代初頭に、東欧が相次いで体制転換をすると、金正日は’社会主義蚊帳理論’を説破して、一層かんぬきをかけて閉ざしてしまった。金正日は東欧崩壊の根本理由を、階級独裁、首領独裁が弱化したからだと解釈した。この時期にも金正日は、世界の流れと正反対に出た。
2000年に、金正日は江沢民主席、金大中大統領と相次いで首脳会談を持ち、2002年には、小泉総理と首脳会談を持つなど周辺国との関係正常化を模索した。
2000年10月、チョ・ミョンロクの訪米とオルブライト米国務長官の訪北、特にその年末のクリントン米大統領の金正日訪米招請は、アメリカとの関係正常化と改革開放に向かうことができる決定的なきっかけだった。 しかし、金大中当時、大統領に送った金正日訪米招請状は、金正日の訪米拒否によって結局霧散した(2003年6月15日、金大中前大統領 KBS’日曜スペシャル’出演時の証言)。
北朝鮮がアメリカと関係正常化をするためには核をあきらめなければならないのに、金正日は核兵器か、アメリカとの関係改善及び改革開放であるのかという、決定的岐路で、結局核を選択したのだ。 ここから、金正日政権が自ら核をあきらめるつもりも、改革開放する意志もないという事実がはっきりと分かる(続く)。