人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

最近、金正日以後の北朝鮮の権力告}の変化に対する関心が増し、朝鮮労働党(労働党)の役割と影響力も注目されている。

北朝鮮の社会主義憲法によれば、労働党はすべての国家機関と社会団体の指導的役割を遂行する機関として、内閣や軍部よりも上にある。他の社会主義国と同様に、北朝鮮の政治体制でも労働党は権力の源であり、すべての国家機関と社会団体の指導的核心であるということだ。

金日成は解放後、北朝鮮の最高指導者になるために、真っ先に政敵をとり除き、党権の掌握に乗り出した。金正日も党を掌握して、自らの権力基盤を固め、北朝鮮の最高指導者の地位に登りつめることができた。金正日の一人支配体制の確立の過程と同時に、労働党の性格も変化することになる。

世宗研究所南北朝鮮関係研究室のチョン・ソンジャン室長は、“労働党は北朝鮮体制全般を導くエリートたちの結合体で、北朝鮮体制の頭と見なすことができる”と述べ、“金正日も党を掌握すれば他のすべての部分を掌握することができると判断し、後継者指名の前から党権掌握のために集中した”と明らかにした。

また、“金正日は1973年に組職書記に任命されて、党・政・軍の高位エリートに対する人事権を掌握するようになり、これが金正日が後継者になるために一番重要な土台になった”と説明した。

人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

統一研究院のチェ・ジヌク研究員は、金正日が労働党を掌握して権力を握る過程を大きく3段階に分けている。基盤造成の段階(1964年~1974年初頭)と基盤拡大の段階(1974年~1980年)を経て、党権行使の段階(1980年~1990年)に至り、労働党を掌握したという。

◆ 組職指導部活動の開始…政治的に‘注目’= 金正日は金日成総合大学の経済学部を卒業した後、1964年に朝鮮労働党に足を踏み入れた。組職指導部に配属された金正日は、この時期に政治的に注目されるようになる。

金正日は党書記局組職指導部の中央指導課中央機関担当責任指導員で、唯一思想体系の確立に反対した党内の‘甲山派’の粛清を主導する。また、その後も唯一思想体系の確立を名分に粛清を主導し、権力の核心に進入する。

人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

それ以降、金正日は宣伝扇動部の文化芸術指導課長になり、思想事業に専念するようになった。宣伝扇動部の副部長になった後は、1956年以降形成された首領制を確立した。唯一思想体系の確立を、金日成の個人崇拜と関連付けて、首領が党に代わる作業を推進したのだ。

1960年代後半には、唯一思想を基に、唯一指導体系の確立を推進し、唯一指導体系の理論的土台となる‘革命的首領観’を提示した。‘革命的首領観’の提示は党を事実上、首領の政治的道具に転落させる契機になり、これを通じて後継者問題も自然に浮上した。

この時期に革命の1世代目が主導している政治局よりも書記局に党内の日常業務が集中するようになり、書記局を通じた金正日の党権掌握が本格化する。

人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面

◆ 金正日の後継者の指名…唯一指導体制の樹立 = 金正日はその後、1973年9月に党中央委員会第5期第7回全員会議で党書記に選出され、権力の核心に進入する。金正日は31歳で組職、思想担当書記に選出されて、党権掌握のための重要な位置を占めるようになった。

金正日は1974年2月に党中央委員会第5期第8回全員会議で政治委員に選出されて、名実共に後継者の地位を確保した。特に、後継者に指名された後、党権掌握のために党組職と思想部分の掌握に関心を傾ける。このため、組職指導部と宣伝扇動部の機能強化すると同時に、この2大組職を自らの統制化に置いた。

また、金正日は唯一指導体制の確立を通じて、後継者体制の妥当性を確保しようとした。金正日を後継者に指名した直後に、唯一指導体制を確立したのは、金日成の権威を基に、自身の指導体制の正当性を確保するためだった。

金正日は唯一指導体制の確立を具体的に実現するために、党中央委員会組職指導部を強化した。金正日はまず、組職の改編を断行して、中央党から細胞組職に至るすべての指示と文書が、金正日の承認の下に行われるようにすることで、党組職を上から下まで徹底的に掌握しようとした。

金正日はそれ以外にも、後継者に指名された後、権力基盤を拡大させる重要な手段として、大衆動員に関心を傾け始めた。このため、まず今まで金日成が指導した3大革命塑造運動を自らが直接指導するようになり、自身の支持基盤を拡大する足場を整えた。

結果的に、1970年代に金正日の党権掌握の過程で、組職指導部と宣伝扇動部が尖兵の役割を果たし、これらの部署の権限も自然に拡大した。特に、組職指導部は組職の改編を通じて幹部事業、検閲事業などを総括的に指導するようになるなど、組職を拡大すると共に、党の核心部署で確固とした地位を築いた。

また、金正日は1970年代半ばから、党内の唯一指導体制の確立を足場に権力基盤を拡大し、軍と政務院、対南事業分野まで主導権を行使するようになる。

だが、後継者体制確立の最大の障害物も存在した。金日成の後妻、金聖愛の一派だった。金正日が後継者に指名された後、1974年6月に平壌市の党全員会議で、金聖愛と側近が大挙して振り落とされた。金聖愛とその兄弟、子供は‘枝’として徹底的に牽制され、権力の核心から遠ざけられた。

◆ 金日成-金正日時代…実質的に党権を行使 = 金正日は1980年10月の第6回党大会でナンバーツーの席に座り、後継者として公式に活動を始めるようになる。金正日は1970年代末に党内の人事権を広く行使していたが、この時期に実質的に党権を行使する段階に入った。

金正日は1970年代に組職指導部と宣伝扇動部を通じて党権を掌握したが、公開の場にはあまり登場しなかった。だが、第6回党大会をきっかけに、全面に出るようになり、第6回党大会では、将来の重要課業は代を引き継いで革命の伝統を継承し、発展させることだと宣言することで、金正日の後継者告}が確固とした党の進路であることを、公の場で明らかにした。

また、金正日の後継者体制を確立するための措置として、政治局の常任委員会が復活した。常務委員会と書記局の軍事委員会に選出された人は、金日成を除き金正日だけで、単純な後継者の地位を超えて、実質的な統治者としての金正日の位相が公式化された。更に、この時期には金正日時代を開く世代交代が実現し、新しい人物が大挙して党の指導部に布陣した。

この時から、金正日の地位の確立が進むことになる。1982年に金正日の誕生日が公式の祝日に指定され、金正日を称える出版物も出版された。1986年には金日成の誕生日と同様に、祝日が2日間になった。1984年からは金正日の白頭山密林野営地出生説が本格的に広められた。

金正日の活動も活発になり、活動の範囲も幅広くなった。外国の国家元首に接見したり、金日成だけが行っていた現地の実務指導にも随行するなど、活動の内容も格上げされた。1980年代半ばに、北朝鮮の政治体制は金日成-金正日共同統治時代に入り、やがて金日成が‘半引退’することになる。

◆ 金日成の死亡…労働党総書記に推戴 = 1980年代に、党を通じて実質的に北朝鮮体制を動かしていた金正日は、1990年代に入り、公式にナンバーツーの地位を確保することになる。

金正日は1990年5月の最高人民会議第9期第1回会議で、国防委員会第1副委員長に選出され、1991年12月24日には党中央委員会の第6期第19回全員会議で、朝鮮人民軍最高司令官に推戴されて、金日成の死に備えた軍事力の掌握を確立した。

1994年7月に金日成が死亡した後、金日成に対する住民の哀悼とこれに対する自身の配慮を理由に、公式の継承を延期し、‘遺訓統治’を行う。

‘遺訓統治’の期間には、偶像化作業と金日成のカリスマ性の表現などを通じて、金日成の権威を確保するために努力を傾けた。首領中心の政治体制である北朝鮮で、党の総書記や国家主席に就任するよりも首領としての地位を確保することの方が重要だったからだ。

金正日は金日成の死から3年3ヶ月経った1997年10月8日に朝鮮労働党の総書記に就任する。一部ではこの時から北朝鮮で‘金正日時代’が本格的に始まったと評価されているが、1980年代に党を完全に掌握していた金正日にとっては、形式的な手続きに過ぎなかった。