「(北朝鮮の外)に出て、なんとか家族を連れ出してください。もし出来なかったら家族は交通事故で死んだと思ってください。ヘウォンとキュウォンは、幼いからこの社会(北朝鮮に)に慣れるでしょう。あなたが、もし私の話を聞き入れず(韓国の)工作員になって、他の人をここから連れ出すのなら、私たちは本当に救われません。もう一度言います。帰ってこないで下さい。 私たちは死んでも良いから汚い人生を送らないでください」
自らの意志で北朝鮮に入国し、対南放送工作員として活動した呉吉男(オ・ギルラム)博士の妻、申淑子(シン・スクチャ)さんは夫の頬を打ちながら、最後に投げかけた言葉だ。
呉博士は、1969年ソウル大学校独文科を卒業後、西ドイツに留学し経済学博士学位を受ける。しかし、留学時期に韓国民主化運動によって国内の再入国が困難になったちょうどその時、北朝鮮から経済学の『代価』として待遇するとの甘い誘いに屈し、反対する家族を引き連れて北朝鮮に入国した。
入国後、北朝鮮体制に幻滅を感じた彼は、再度北朝鮮を単独脱出し、長い間ドイツで家族を救出するための活動を行い、1992年韓国に入国する。1993年に妻と娘たちを救出するために「金日成主席、私の妻と娘を返して」との著書を出すも、韓国内では大きく注目されずに絶版となる。
6月、この著書が、北朝鮮人権運動家キム・ミヨン氏によって『失った娘たち あぁ!ヘウォンよ、キュウォンよ』との題名で再版された。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面キム氏は、編集者の序文において「10年前、インタビューのため呉博士を訪れたのだが、彼は突然、家族写真を渡された。 同時に『私が死んでなくなったらヘウォンとキュウォン、そして妻のために話をしてやってほしい』と言ってきた。呉博士の人生は韓国版の『ファウスト』」と再出版の理由を明らかにした。
呉博士は、本の中で、北朝鮮工作員の懐柔に簡単にだまされてしまった自身の誤り、そして家族を連れて自主的に北朝鮮へ入国した後、単独で脱北した自らの行いに対して何度も悔いる姿を綴っている。
彼は「醜い父に連れられ凍土の土地まで行き、人質の身となった我が妻と二人の娘。醜い夫の忘れられない絶叫の代わりなのか、私の目にはとどめなく涙がこぼれた。私は愚かだった。(北朝鮮で)自分の学問を完成できると信じていた。だが、私は偽装された救国の声オウム放送要員だった。北朝鮮はいんちき宗教の光神がかり的集団や違いなかった」と愚かだった自らを自嘲気味に語る。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面著書の後半で、ユン・イサンという人物が執拗に再度、北朝鮮へ入国することを勧めるが、それを断る呉博士の姿が登場する。ユン氏は、呉博士が韓国へ脱出後、数回会いながら強要されたと思われる妻の手紙と音声テープを渡す。ユン氏が執拗に北朝鮮への再入国を勧めたのは、呉博士が対南放送工作要員の立場として機密事項に関わっていたからだ。
ユン氏は、「呉博士、あなたはキョン網なったことをした。こんな事をしなければ、いい地位にいれたのに。あなたをずっと対南放送要員として使うつもりはなかったのです。北朝鮮は、あなたの誤りを寛容に許す意向があるとのことです。家族のことを考えて平壌に帰りましょう」と説得を繰り返す。
呉博士が、その提案を断り、逆に自身と引き替えに家族を交換すると提案するとユン氏は、「こいつは、自分が何を言っているのかわからないようだ。出て行け!」と罵倒する。
また、「なぜ北のことを悪く言うのですか?統一運動の邪魔をするならあなたの家族の命はないと思いなさい」と脅迫しながら「コンピュータ技術を4〜5年ドイツで勉強し、権威となってから平壌の家族の許に帰りなさい。その間、祖国(北朝鮮)は家族を丁寧に扱うでしょう」と懐柔もする。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面呉博士は、執拗に北朝鮮へ行くことを勧めるユン氏に対して、「ユン・イサンを対南工作の一環として利用した。それが分からないのはユン・イサン本人だけだった。彼は、北朝鮮人民の怒りを知ろうとも見ようともしなかった。北朝鮮に持ち上げられて感動し、冷静な見方を失ってしまった」と回顧した。