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北朝鮮・金正日の内縁の妻として知られる、元女優の成恵琳(ソン・ヘリム)と、万寿台芸術団の元舞踊家の高ヨンヒ(コ・ヨンヒ)。

金正日は成恵琳とは1968年から1974年まで、高ヨンヒとは1975年から2004年に死去するまで共に暮らしていた。

金正日は、他の多くの女性とも公式、非公式に関係を持ったが、長年同棲生活を送り、子どもまでもうけたのはこの2人だけだった。金正日は、正妻とされる金英淑(キム・ヨンスク)との間には2人の娘がいるものの、全く愛情のない関係だったという。

金正日は成恵琳に夢中

成恵琳の姉、成蕙琅(ソン・ヘラン)は著書「藤の家」で次のように記している。

「父(金日成)を継母(金聖愛、キム・ソンエ)に奪われ、多感な思春期を一人寂しく過ごしていた金正日にとって、成恵琳は、母への郷愁を感じさせる存在だったのかもしれない。スラリとした長身、なで肩、整った鼻筋は、柔順でしとやかな口もとと共に、恵琳の顔の特徴だった。」

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成恵琳は、金正日が最初に同棲した女性だ。彼女はずば抜けた美貌と、幼い頃から受けた教育が醸し出す教養と礼節で、北朝鮮屈指の人気を誇る女優だった。金正日は、友人の義姉として5歳年上の彼女に出会った。多くの女性の関係を持った金正日だったが、愛情を抱いたのは、成恵琳が初めてだった。

恵琳は金正日が理想とする美人

成恵琳は1937年、現在の韓国にあたる慶尚南道(キョンサンナムド)の昌寧(チャンニョン)の名門の家の父、成有慶(ソン・ユギョン)と、1920年代の民族主義雑誌「開闢」の女性記者だった母、キム・ウォンジュの間に次女として生まれた。

ソウルの豊文(プンムン)女子中学校に通っていた彼女は、1948年に家族とともに北朝鮮に移住した。平壌第3中学校、平壌芸術学校を卒業し、19歳のときに、プロレタリア作家で朝鮮作家同盟委員長だった、李箕永(リ・ギヨン)の長男、李平(リ・ピョン)の元に嫁いだ。やがて、2人の間にはオクトルという娘が生まれた。

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成恵琳は結婚後も自分のキャリアを諦めず、演劇映画大学演出科に入学した。卒業後に映画「分界線の村」に出演したのを皮切りに、女優の道を歩むようになった。

ちょうどそのころ、彼女の存在が「上司」の目に留まった。その上司こそ、当時撮影所に頻繁に来て映画の指導をしていた金正日だった。多くの映画に出演するも、土台(出身成分)が悪かったため、格下扱いで、朝鮮労働党への入党もできずにいた。

映画について夜通し語り合った二人。早くに母を亡くした金正日は、成恵琳に温かな慕情を感じたのだろうか、のめり込んでいった。やがて金正日は、夜な夜な成恵琳を官邸に呼び出すようになった。そして、継母金聖愛との権力闘争の傍ら、「人妻との危険な同棲」を始めた。金正日はそれほど成恵琳に夢中になっていたのだ。

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「恵琳は、危うい政治的立場にあった我が家を救うために、王子の差し出した権力を受け取る決心をしたのだ。だからと言って、打算だけで王子を受け入れたわけではない。2人は、とても気の合うカップルだった。感性、芸術のセンス、笑いの感覚まで似ていて、一緒にいると楽しくてたまらないようだった。普通の人だったら面白おかしく暮らしていたことだろう」(成蕙琅「藤の家」より)

(続く 金正日の内縁の妻、成恵琳と高ヨンヒとは?【下】

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