5月26日は、金正恩党委員長の外交戦術が「惨敗した日」として歴史に刻み込まれるだろう。
トランプ米大統領が24日に米朝首脳会談の中止を通告したことを受けて、金正恩氏は26日、電撃的に韓国の文在寅大統領と2回目の首脳会談を行った。朝鮮中央通信によると、金正恩氏は「6月12日に予定されている朝米首脳会談のために多くの努力を傾けてきた文在寅大統領の労苦に謝意を表して歴史的な朝米首脳会談に対する確固たる意志を披れきした」という。
「確固たる意志」とは、なんとしてでも米朝首脳会談を行いたいという、いわばトランプ氏に対するラブコールだ。北朝鮮の最高指導者がここまで下手に出るのは極めて異例である。
今年1月からの対話姿勢を前面に出した金正恩外交は、半年もたたずに敗北を喫したといっていい。
ただし、この敗北は自滅でもある。トランプ氏が会談中止を通告した理由の一つとして挙げられるのが、北朝鮮の崔善姫(チェ・ソニ)外務次官が24日に発表した談話だ。崔次官は談話の中で、「われわれは米国に対話を哀願しないし、米国がわれわれと対座しないというなら、あえて引き止めないであろう」と断言しながら米国を非難した。これが米国に「怒りとあからさまな敵意」として捉えられた。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面これに先立ち、北朝鮮の金桂冠(キム・ゲグァン)第1外務次官は16日、米国が非核化のハードルを高め過ぎれば「われわれはそのような対話にこれ以上興味を持たず、近づく朝米首脳会談に応じるかを再考慮するしかない」とする談話を発表。対北朝鮮強硬派として知られるボルトン米国家安全保障担当大統領補佐官に対して「拒否感を隠さない」と不快感を強調した。
北朝鮮は、トランプ氏が米朝首脳会談に前向きな姿勢を示してから、米国に対する露骨な非難を控えていた。ここに来ていきなり態度を変えた理由として考えられるものが2つある。ひとつは、米国が非核化の要求レベルを吊り上げたこと。そしてもうひとつが、中国との関係改善や南北首脳会談を通じて、金正恩氏が自らの外交手腕を過信してしまったことだ。
金正恩氏は3月26日、電撃的に習近平国家主席と会談を持った。百戦錬磨の習氏を前に、首脳会談デビューの金正恩氏は、まるで借りてきた猫のように大人しく、指導者としての格の違いを見せつけられた。それでも会談自体は概ね成功したといえる。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面金正恩氏は4月27日、文在寅氏との南北首脳会談を経て、今月9日には習氏と2回目の会談を行った。わずか2ヶ月の短期間で3回もの首脳会談を持ったことで、金正恩氏は相当ストレスをもっただろう。そうでなくても、国内では頻繁に現地指導で地方を訪れているが、特殊な動線の問題から多大なストレスを強いられており、とりわけトイレ問題は深刻だとされる。
(参考記事:金正恩氏が一般人と同じトイレを使えない訳)金正恩氏が、精神的に厳しい時間を過ごしていることは想像に難くない。とはいえ、金正恩氏はその最大にして数少ない武器の一つである若さ(34歳)で3度の首脳会談を乗り切った。まだまだ未熟さは見え隠れするが、端から見ても、最初に比べその振る舞いは堂に入りつつあるようだ。本人も手応えを感じていただろう。こうした中、金正恩氏は中国との関係改善に自信を持ち、米国にも強気に出られるのではないかと思い込んだのではなかろうか。
実際、北朝鮮が米韓に対して高飛車な姿勢を打ち出し始めるのは習氏との2回目の会談直後からだ。今月16日には、米韓合同軍事演習を理由に南北高位級会談をいきなり中止した。それに続き、北朝鮮外交のキーパーソンである2人、金桂冠氏と崔善姫氏が米国に対して強硬姿勢を打ち出したのだ。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面金正恩氏は米朝首脳会談前に、うまく中国との関係を改善できたことで、自分の外交手腕に自信をもった。そして韓国の仲介がなくても米国に対して強気な姿勢で臨めると思った──ひらたく言えば「調子に乗ってしまった」というやつだ。
これまでの米国の指導者なら、歴史的な会談の実現を優先して譲歩したのかもしれない。しかし、今回ばかりは相手が悪かった。交渉上手を自認するトランプ氏は、会談中止を表明して金正恩氏を無慈悲に突き放した。これに金正恩氏は相当なショックを受け、焦りを感じただろう。翌25日に、即座に外務次官の談話を発表したが、その中身は言い訳に終始している。
いきなり劣勢に追い込まれた金正恩氏は26日に急きょ、文在寅氏との首脳会談を持ち、「米朝会談の実現に確固たる意志」を表明した。もはや、会談を強く望んでいるのは金正恩氏であり、トランプ氏が「会ってやる」という構図ができあがった。
この間、金正恩氏の外交手腕は「したたか」「交渉上手」と評価されてきた。筆者も金正恩氏が合理的で実利的な一面を持っていることは認める。しかし、トランプ氏という型破りな人物に対して、金正恩氏の交渉術は通用しなかった。金正恩氏はたった2ヶ月で経験不足を露呈し、最初にして最大の大惨敗を喫してしまったのだ。
高英起(コウ・ヨンギ)
1966年、大阪生まれの在日コリアン2世。北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。北朝鮮問題を中心にフリージャーナリストとして週刊誌などで取材活動を続けながら、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に 『脱北者が明かす北朝鮮』 、 『北朝鮮ポップスの世界』 (共著) 、 『金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』 、 『コチェビよ、脱北の河を渡れ ―中朝国境滞在記―』 など。