ここ数年の間に、北朝鮮で起きている人権侵害は国際社会での主要なイシューになった観がある。国際社会が北朝鮮で起きている人権侵害に関心を持ち始めたのは、冷戦末期の1980年代末になってからだった。そして、1994年7月の故金日成主席の死去と前後して始まった大混乱期「苦難の行軍」において、内部からの情報の噴出が起きる。中国や韓国に逃れてきた脱北者の証言によって、北朝鮮社会の実態が伝わり始めたのだ。
筆者も1993年から「救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク(RENK)」でのNGO活動を通じ、金日成・金正日の両体制による人権侵害を訴えてきた。だが当初、人権侵害の事例を集めるのは簡単なことではなかった。何より、公開処刑などの残忍さに圧倒され、「そこまでやるのか」となかなか実態が飲み込めなかった。
(参考記事:謎に包まれた北朝鮮「公開処刑」の実態…元執行人が証言「死刑囚は鬼の形相で息絶えた」)全体像がつかめない中で断片的な証言をまとめていく作業は、さながら難解なパズルのようだった。
例えば、中国で逮捕され北朝鮮に強制送還された脱北者はまず、中朝国境沿いにある「集結所」に収容される。現在でこそ、性的暴力の横行する「集結所」内部の実態に関する証言も整理されてきているのだが、北朝鮮の刑法を見ても該当する記述がどこにも見当たらない。
「集結所」では強制労働もあるというのだが、別の住民が言う「労働鍛錬隊」、「労働教化所」との区別がつかなくなるといった具合だ。すでに存在が確実視されていた政治犯収容所も「管理所」が正式名称であるのだが、事前の知識がないまま話を聞いたら何の事だか分からないのである。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面移動の自由、言論の自由がない北朝鮮では、情報が分断されているため、住民が社会全体を見渡しある事象を位置付けることが難しい。
さらに困ったことに、北朝鮮の人々もさるもので、こちらがよく理解していないことが分かると、大げさな悲劇を付け足すなど話を盛ったり、適当にはぐらかしたりするのである。派手な話をしたら、もしかしたらいくらかの支援を受けられるかもしれないという心理は、数十万から一説に100万人以上の餓死者を出したという1990年代の悲惨な状況を考えると十分に理解できる。
とはいえ、北朝鮮独特の用語の理解はインタビューの精度に関わる大事な問題であった。朝鮮語を理解できない外国の研究者や記者などは通訳を介さなくてはならないが、通訳にそんな事前知識があるはずもなく、中朝国境の現場はまさにカオスだった。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面それから20年が経ち、そんな悩みも過去のものとなった。韓国入りした3万人にのぼる脱北者の証言や、デイリーNKのような北朝鮮内部での取材活動によって、北朝鮮の人権侵害の全貌はほぼ明らかになったといってよい。
その集大成が2014年2月に北朝鮮における人権に関する国連調査委員会(COI)がまとめた「朝鮮民主主義人民共和国における人権に関する国連調査委員会の報告」だ。全425ページにのぼる報告書は、日本人拉致問題を含む、過去20年間集められた北朝鮮政府による人権侵害を体系化し「人道に対する罪」が起きていると結論づけた。
さらにこれを改善するために、北朝鮮は国家的な人権侵害システムを改め、国連は「首謀者」である金正恩氏をはじめとする北朝鮮の最高幹部たちを国際刑事裁判所(ICC)に告発し、法廷で説明責任を果たすようにすべしとしたのだった。
北朝鮮人権用語集の発刊
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面この報告書を補完する一冊の本が今月5日、韓国で発行された。韓国の国家機関・国家人権委員会がまとめた「北韓(北朝鮮)人権用語集」がそれだ。先に挙げたような人権侵害にまつわる549にのぼる単語を英語・韓国語で整理し、用語による混乱が無いようにした優れものだ。
ちなみに、用語集によれば、「集結所」は「脱北者をはじめ、出身地域以外の場所で逮捕された住民を臨時で拘禁する施設」であり、「労働鍛錬隊」は「刑法に基づき犯罪者を強制労働させるための刑罰」とする。「労働教化所」は「一般的な国家における懲役刑と非常に類似している(刑務所)」と分かりやすく説明する。
先の報告書と合わせ、英語で資料が出そろったことになる。世界中で北朝鮮政府による人権侵害の情報が共有される大きな一歩となることが予想される。
ソウル市内の中心部では、2015年5月から国連の北朝鮮人権事務所が居を構えている。「ポスト金正恩」を見据え、人権侵害の下手人を裁くための客観的な資料を日々集めている。国際社会のこうした努力に加え、韓国政府やNGOが蓄積してきた人権侵害の記録により、金正恩氏への包囲網は確実に狭まっている。
現に、金正恩氏が一番触れてほしくない内容が人権であることは、国連での北朝鮮側のヒステリックな反応をみても一目瞭然である。
金正恩氏は、人権侵害に対して明確に責任を負わなければならない。金正日総書記の死去からすでに5年以上が経つ。人権侵害は「祖父の代からの負の遺産」という言い逃れはもはや通じないのである。
高英起(コウ・ヨンギ)
1966年、大阪生まれの在日コリアン2世。北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。北朝鮮問題を中心にフリージャーナリストとして週刊誌などで取材活動を続けながら、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に 『脱北者が明かす北朝鮮』 、 『北朝鮮ポップスの世界』 (共著) 、 『金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』 、 『コチェビよ、脱北の河を渡れ ―中朝国境滞在記―』 など。