北朝鮮は、法よりも最高指導者の「マルスム」(お言葉)が優先される社会だ。金正恩党委員長の指示、命令、教示、あるいは「党の唯一領導体系確立の10大原則」などが事実上の法、あるいは宗教で言うところの「戒律」として効力を発揮する。法治主義とは程遠いお国柄なのだ。
「虐殺」の事例も
また人権についても、それがどんなものであるかという概念すら知らないから、自分の権利が侵害されても抗議する言葉を持てなかった。
(参考記事:脱北女性、北朝鮮軍隊内の性的暴力を暴露「人権侵害と気づかない」)しかし一部ながら、そのような状況に変化の兆しが見えてきた。
平安北道(ピョンアンブクト)のデイリーNK内部情報筋は、人々の間で「法意識が高まりつつある」として、次のような事例を紹介した。
「保安署(警察署)は宿泊検閲という名目で、家宅捜索を行ってきた。今まではおとなしく従っていたが、最近様子が変わった。『捜索令状を見せろ』と要求するようになったのだ」
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面北朝鮮では、自宅に他人を泊める際に保安署に届け出なければならない。それでも無断で泊めたり、許可なしに自宅で宿泊業を営む人もいる。それを取り締まるための家宅捜索が宿泊検閲だ。保安員(警察官)は家に踏み込み、不審者がいないかを確認する際には捜索令状を見せなければならないのだが、これが完全に有名無実化していた。
情報筋は、流通の中心地、平安南道(ピョンアンナムド)の平城(ピョンソン)市で起きたエピソードを紹介した。
「保安員が、あるトンジュ(金主、新興富裕層)の家を家宅捜索した。ところが、いくら探しても密輸品は見つからなかった。すると頭にきたトンジュは『令状なしのガサ入れは違法だ。人権侵害じゃないか』と大声で騒ぎ保安員に反抗したので、町中の人に知れ渡ってしまった」
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面北朝鮮で、一般の国民が権力に対して抗議するなど、かつてなら命がけだった。実際、当然すぎる主張をしただけで、虐殺の憂き目に遭った人々もいる。
保安員は、宿泊検閲を利用してトンジュの家を狙い、家宅捜索で難癖をつけてカネを巻き上げることが少なくない。このトンジュはおそらく、同様の被害に何度も遭ったのだろうが、「法のイルクン(官吏)が違法に人を逮捕、拘束、拘引したり、身体や家屋を捜索したり、財産を押収、没収した場合には、1年以下の労働鍛錬刑に処する」と定めた刑法241条のことを知り、大きく出たようだ。
なぜ人々の間で法に関する意識の変化が置きつつあるのか。情報筋は「韓国のラジオが情報源」だと言う。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面「最近、町では『他の国では令状なしに家宅捜索をするのは人権侵害だと南朝鮮(韓国)のラジオで言っていた』『家宅捜索に来られたら、令状を見せろと要求した方がいい。違法ではない』『保安員もまずいことをしているという意識はあるようだ』などと口々に話している。」(情報筋)
韓国には北朝鮮向けの放送を行っている放送局が10以上ある。中でも公共放送のKBSが運営する「韓民族放送」は、2つの周波数を使い、1500キロワットと出力も大きく、1日20時間の放送を行っている。ちなみに、日本のNHKラジオ第2放送の出力が最大で500キロワットであることを考えると、1500キロワットがいかに強力かがわかる。
現在放送されている番組の中に法律専門番組はないが、トークに出てくる法律の話を聞いた北朝鮮の人々の間で、法についての意識が高まりつつあるようだ。
さらに、中国から放送される朝鮮語のラジオ放送には法律番組はもちろん、「法制チャンネル」という局もある。「法治」を強調する中国政府の意向の反映だ。
米国は北朝鮮住民に対するラジオ放送を強化すると伝えられている。じまた、英BBCも、独自の対北朝鮮放送を検討している。それほどラジオは、北朝鮮の住民の意識変化に重要な役割を果たしているということだ。
ただ、「人権」や「法」とは何かを知った人々が、どんな場面でも権力に強く出られるわけではない。公開処刑や政治犯収容所に象徴される金正恩体制の恐怖政治は、いまなお続いているからだ。
高英起(コウ・ヨンギ)
1966年、大阪生まれの在日コリアン2世。北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。北朝鮮問題を中心にフリージャーナリストとして週刊誌などで取材活動を続けながら、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に 『脱北者が明かす北朝鮮』 、 『北朝鮮ポップスの世界』 (共著) 、 『金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』 、 『コチェビよ、脱北の河を渡れ ―中朝国境滞在記―』 など。