北朝鮮を1990年代後半に見舞った大飢饉「苦難の行軍」では、十万人単位の餓死者が出たと言われる。その一方、少なくない人々が、当時は違法だった市場で商売を始めた。それしか餓死を免れる方法がなく、生存本能からとった行動だった。そんなささやかな商売が、いつしか大きくなっていた。
蓄積した富を金融業、輸送業などに投資し、豊かになっていった新興富裕層を、北朝鮮では「トンジュ(金主)」と呼ぶ。そんな彼らの間に衝撃が走った。ビールの卸売で財を成したトンジュ女性が逮捕され、平壌から追放されたというのだ。
(参考記事:北朝鮮「金持ち女性」たちの密かな楽しみ…お国の指示もそっちのけ)平壌のデイリーNK内部情報筋が、事の一部始終を語った。
50代女性のキムさんは、2000年代後半から平壌市内の大同江ビール工場からビールを仕入れ、郊外にある平城(ピョンソン)や順川(スンチョン)の市場やレストランに配送するビジネスをしてきた。
金正日総書記の指示に基づき、廃業した英国のビール工場から設備を買い入れ、立ち上げられたのが大同江ビール工場だ。2002年4月から生産を開始、主に平壌市内で販売し、味の良さで非常に高い評価を得てきた。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面工場は、運営予算と従業員への給料、配給を確保するために販路拡大を迫られた。キムさんは権力機関とのコネを利用して、工場に保証金を預けた上でビールを仕入れる権利を得た。
キムさんは、人民委員会(市役所)から出張証明書を得て、全国有数の卸売市場のある平城や順川を行き来し、証明書がない場合には検問所でワイロを掴ませ通過していた。手腕を発揮して販路をどんどん広げ、平壌や周辺地域では名の知れた商売人となっていた。
事件が起きたのは、今年1月末のことだった。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面Aさんは、ビールを車に積み、いつものように検問所を通過しようとした。ところが、その日に限って通過が認められず、そのまま逮捕され、平壌市保安署(警察署)の留置場に入れられてしまった。
逮捕の理由は「国家生産品を横流しし、不正に財産を築き、非社会主義的行為を常習的に行ってきた」というものだ。また、違法とされる多数の車両を使っての商売を行ってきたことも問題となったようだ。
キムさんは全財産を没収された上、今月初めに順川に追放されてしまった。家財道具をまとめる時間すら与えられず、裸同然で放り出された。また、大同江ビール工場の経理担当者と出荷担当者も保安署で取り調べを受けたが、どのような処罰を受けたかについて情報筋は言及していない。
人気記事:「女性16人」を並ばせた、金正恩“残酷ショー”の衝撃場面この一件が、北朝鮮のトンジュたちの間に大きな波紋を呼びそうだ。
金正日氏は、トンジュに奪われてしまった経済の主導権を国の手に取り戻し、従来の社会主義計画経済に戻すために、様々な口実でトンジュを弾圧し、中には処刑される人すらいた。
(参考記事:「頭が腐った奴らは頭蓋骨から吹き飛ばせ」金正日は命令した)ところが、そのような政策は失敗し、国は大混乱に陥った。それを傍から見ていたであろう金正恩党委員長は、市場経済にはできる限り介入せず保護する政策を取ってきた。
最近になり、トンジュの持つ利権を国が取り戻そうとする動きは現れていたが、このように強引に行われることはなかった。
実際、平壌出身の脱北者は「納得できない」「それで違法になるならば、トンジュの不動産投資も違法扱いになってしまう」との反応を示している。政府は、不足する住宅建設予算を補うため、マンションの部屋を譲渡する見返りにトンジュの投資を募る。完成後にトンジュは部屋を売って利益を確保するというものだ。
(参考記事:「手足が散乱」の修羅場で金正恩氏が驚きの行動…北朝鮮「マンション崩壊」事故)もし今回の件がトンジュへの弾圧策の一環ならば、投資心理を凍りつかせ、ただでさえ急落している不動産価格の下落に拍車がかかり、住宅の建設にも問題が生じ、金正恩氏の評判にも傷がつくだろう。つまり、誰も得をしないのだ。
事件の背景には、女性が特定の権力者から恨みを買っていたり、納めるべき上納金を納めなかったりしたなど、個人的な理由があるのかもしれない。あるいは金正恩氏が進めている不正腐敗との戦いに、何らかの理由で運悪く引っかかってしまった可能性もあると言えよう。