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脱北者たちの苦痛と悲しみをリアルに描いた映画‘クロッシング’(監督キム・テギュン)が、6月末の封切りを控えて映画ファンの期待を集めている。

封切りを控えて多くの話題を呼んでいる‘クロッシング’で、主演俳優‘チャ・インピョ’やキム・テギュン監督に劣らず注目されている人物がいる。映画の助監督であり、脱北者出身であるキム・チョリョン(34)氏。


以下はキム・チョリョン助監督とのインタビューの内容]

-‘クロッシング’は映画‘国境の南側’の製作に参加した後、北朝鮮を素材にした2回目の映画だが。

“‘国境の南側’という映画は製作の過程が大変でもあり、興行もうまくいかず、一層大変だった。その後、北朝鮮関連の映画は作らないと決心しました。

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キム・テギュン監督が一緒に映画を撮ろうとおっしゃった時は、シナリオは本当によかったのですがとてもためらいました。キム監督には他の映画を撮っていると言い訳をしたのですが、本当は北朝鮮を素材にした映画は胸が痛んだのです。私の経験を避けたかったし、そこから脱したかったのです。

キム・テギュン監督に再開した時、私にこのようにおっしゃいました。‘あなたが当事者なのに避けるようになれば、他の人が出ますか。あなたが出なければならない’と。この問題について妻とも話をたくさんしました。結局、痛みを思い出すことは辛かったのですが、今も北朝鮮には痛みを経験している人がいるというのがこの映画の製作に参加するようになった動機です”

- 映画でキム助監督の具体的な役目は何か。

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“製作を始めた時は、考証演出部第2助監督からスタートしました。当時、演出部の助監督が突然事情ができてやめることになり、2007年2月に監督が私に演出部の助監督を提案しました。そして慶尚南道のヤンサンや江原道、モンゴル、中国などを回ってハンティングをしました。

映画で脱北したヨンスが中国の木材所で働くのですが、実際に私が中国の材木伐採場で働いた経験があって、場所の設定を手伝いました。モンゴルの市場や江原道の北朝鮮咸鏡北道村の再演セットなどの仕事を手伝いました。市場と集結所の場面には、30人以上の脱北者の人たちが参加しましたが、その方たちから‘私が住んでいた故郷みたいだ’と言われた時、うれしかったです。また、北朝鮮の軍人の衣装やバッジ、軍人の肩章やシナリオの修正などの仕事もしました。咸鏡北道出身である私の妻も、シナリオの修正を手伝ってくれました”

- 近くで見たキム・テギュン監督について一言お願いしたい。

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“実は、キム・テギュン監督は製作チームの間では映画界で避けなければならないと言われている監督の1人です(笑)。キム監督は現場であらゆる条件を活用して演出しようとします。そのため、製作チームの立場としては、すべての状況を準備しなければならないんですよ。

クロッシングでキム監督から俳優に対する愛情と映画に対する情熱を学びました。実は、ジュニ役にシン・ミョンチョル君がキャスティングされるとは、誰も予想できませんでした。キム監督は待ちに待って、シン・ミョンチョルという宝物を捜し出しました”

- 製作者の立場から映画‘クロッシング’を評価してほしい。

“北朝鮮の実態を100%表現したとは言えませんが、10%でもリアルに見せることができたと評価しています。

製作の過程では集結所に送られた妊婦を殴る場面を演出した時、演出部で多くの論争がありました。実際に座ったり起きたり屈伸を続ける‘ポンプ’という苛酷な行為や、警察が脱出しただけでなく、中国の種子までもらってきたのかと言ってお腹を殴ったり踏みつける場面を演出する際、この姿が社会的には非常にリアルである可能性があり、誤解されると言って、その程度を調節する問題が生じました”

- 製作で一番大変だった点は。

“映画を3ヶ国で撮影しましたが、旅行のストレスも大きく、現地で補助演技者をまとめることも大変でした。150~200人の、言葉が通じない人をまとめなければならないのですが、演出部と監督が随分苦労していました。

演出部が海外でそのように苦労して来て、韓国の人の補助出演者をまとめる時は、‘これはガム程度だ’と言っています(笑)”

- 辛いことだと思うが、北朝鮮を脱出した過程について話してほしい。

“私は黄海北道の沙里院出身です。北朝鮮の社会は到底社会主義国家と考えられませんでした(詳しい内容はキム氏の要請で省略します)。そのため、1999年に北朝鮮を脱出して、2年間中国に滞在しました。2001年2月に中国の公安につかまってファリョンの辺方隊、北朝鮮茂山の教導隊を経て清津の集結所に入れられましたが、再び北朝鮮を脱出して韓国に来ました。

私が実際に脱北した時に渡った豆満江のことが一番記憶に残っています。30メートルほどしかない川幅ですが、1メートル1メートルが、何キロもあるように感じられ、瞬間瞬間が数日のように感じられました”

- 今後どのような活動をする嵐閧ゥ。

“映画監督です。今回地方でシナリオを書きましたが、映画を作りたいです。痛みや悲しみだけがある映画ではない、アクションと恐怖のジャンルでもよい映画を作ることができると思います。アクション分野の内容は単純ですが、明確なメッセージを伝えることがあるんですよ。ベトナム戦争の映画が自国の捕虜を救い、相手の国の非倫理性や人権などを見せてくれることがあるように、アクションでも内容を観客の心に残すことができると思います。

今、シナリオを綴字法に合わせて修正していて、キャラクターを生かすための手入れなど仕上げの作業をしています”