ツイッターのハッシュタグ #MeToo を掲げ、自らの体験した性暴力の被害を告発するムーブメントが全世界的な広がりを見せる中、ある脱北女性が声を上げた。

北朝鮮出身で脱北後に韓国の新体操ナショナルチームのコーチを務めたイ・ギョンヒさんはJTBCとのインタビューで、協会幹部からのセクハラやパワハラに苦しめられ続けたことを告白した。イさんは、コーチを辞めさせられるかもしれないという恐怖と、自分は脱北者だからというあきらめから沈黙を強いられてきた。

脱北女性が置かれた状況は極めて深刻だ。

韓国女性家族省が2012年に発表した「暴力被害脱北女性カスタマイジング自立支援方案研究」という報告書によると、脱北後に性暴力の被害を受けた経験があると答えた脱北女性は全体の44.3%に達した。これは韓国女性の平均4.7%の10倍近い。

(参考記事:「自由」の夢やぶれ韓国でも性的搾取…脱北女性の厳しい現実

イさんは、1987年から北朝鮮代表チームの一員として目覚ましい活躍を続けた。1991年に英国のシェフィールドで行われたユニバーシアードでは3つのメダルを獲得しており、まさに北朝鮮を代表する選手だった。2007年の脱北後には、韓国代表チームのコーチに就任し、今年からは代表チーム予備軍の監督を務めている。

イさんに対する加害者は、2011年から2014年まで彼女の上司だった、大韓体操協会元専務理事のK氏だ。国際大会に出場する選手を選ぶ権限を持つ業界の権力者だ。性暴力のきっかけとなったのは、低すぎる報酬だった。

当時、韓国代表チームのコーチを務めていたイさんが協会から受け取っていた月給はわずか200万ウォン(約19万5000ウォン)。通常の練習に加え、海外遠征に行くにはあまりにも少ない額だった。そこで、賃上げを直談判するためにK氏を訪ねたが、彼の口から飛び出したのは「休憩しながら話そう」「モーテルに行こう」というものだった。

最初はモーテルがどのようなところかすらわからなかったというイさん。要求は何度も繰り返され、そのたびに拒否したが、「これぐらいどうした」「資本主義では、特に体操界ではこんなことぐらいかまわないんだ」などと暴言を吐かれ、身体的接触を強いられたという。

度重なる性暴力ですっかり心を病んでしまったイさん。心療内科に通い治療を受けるほどだったが、韓国社会で立場の弱い脱北者としては、上司であるK氏を訴えることは困難だったという。耐えられなくなったイさんは、辞職届を出すためにK氏を訪ねた。K氏は彼女を車の中に招き入れ、性行為に及ぼうとしたが、激しく抵抗されたため、未遂に終わった。

K氏はイさんに電話をかけ、「年を取っているし、韓国に来てからかなり経つのにまだ新体操界がどう動いているのかわからないのか」「そんなことをすると新体操のためにならない、お前の味方など皆無だ」と脅迫した。

それにしても、なぜ脱北者であるイさんは上司のK氏を訴えられなかったのだろうか。

まず、女性であることに加え、韓国のスポーツ界は上下関係に厳しく、上司に不条理なことをされても耐えるしかないという状況が最近に至るまで続いてきたことがある。同時に、法治主義とは言い難い北朝鮮で暮らしてきた脱北者は、最低限の法律の知識や概念すら持ち合わせていないことが多いことも挙げられる。

また、北朝鮮ではそもそも性暴力の概念が希薄で、セクハラやストーカー行為に対応する法律も存在しないため、被害女性が、自分が受けた被害が人権侵害だと気づいたのは脱北して韓国に来てからというケースが多いという。

(参考記事:ひとりで女性兵士30人を暴行した北朝鮮軍の中隊長

脱北し先の中国で、人身売買や強制売春の被害に遭う女性も後を絶たない。

(参考記事:中国で「アダルトビデオチャット」を強いられる脱北女性たち

そして、脱北女性はようやくたどり着いた韓国でも性暴力のリスクから逃れられない。

脱北者への差別から就職ができず経済的に困窮した女性は、性暴力にさらされるリスクの高い風俗業に従事するケースが少なくない。前述した報告書によれば、風俗業に従事した経験を持つ脱北女性が夫からドメスティック・バイオレンスを受けた割合は82.4%に達し、従事経験のない脱北女性の5.4倍に達した。

そんな境遇にある脱北女性の中にあって、イさんの経歴は特別である。それでも、性的被害とは無縁でいられなかった。

その後、イさんは上部団体の大韓体育会にK氏の性暴力について文書で内部告発を行い、同氏を強姦未遂で警察に告訴した。

内部告発を受けた体育会は監査に動き、K氏の副会長就任を拒否した。しかし、強姦未遂容疑について検察は、不起訴処分を下した。

イさんはまた、同じ業界の関係者から支援を受けるどころか「K氏は辞めた。それでよいではないか。訴えるのはやめるべきだ」と刑事告訴を取り下げるよう促された。イさんは、それがまた悔しかったと語った。

(参考記事:北朝鮮女性を苦しめる「マダラス」と呼ばれる性上納行為

高英起(コウ・ヨンギ)

>>連載「高英起の無慈悲な編集長日誌」一覧

1966年、大阪生まれの在日コリアン2世。北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。北朝鮮問題を中心にフリージャーナリストとして週刊誌などで取材活動を続けながら、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に 『脱北者が明かす北朝鮮』 『北朝鮮ポップスの世界』 (共著) 、 『金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』 『コチェビよ、脱北の河を渡れ ―中朝国境滞在記―』 など。

脱北者が明かす北朝鮮 (別冊宝島 2516) 北朝鮮ポップスの世界 金正恩 核を持つお坊ちゃまくん、その素顔 (宝島社新書) コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記